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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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考○ 読むことと話すこと。

読むことと、話すことを、考えている。

昔、そのまた昔、ことばは、
純粋に、声であり、生ものだった。
人は文字を手にしたことで、ことばをいわば、
冷凍保存することに成功した。
どれだけ昔のことばでも、読むことで、
ことばは解凍される。解凍され、食べられる。 

人間は、食べものだけでなくて、ことばも食べている。
「読む」ということを発明したのは、やはりすごいことなのではないか。

楽譜も、「読む」わけだけれど、音が体に入る、
という感覚を掴むには、音をきちんと噛んで
食べないといけない。音を体に入れないといけない。

音をきちんと噛まないで、音がきちんと体に入っていないまま、
人前で弾くと、どうしても、上滑りの、中身のない演奏になってしまう。 
だからこそ、普段の練習の積み重ねが大切で、一夜漬けの練習は
音楽の場合は、まるで意味がなくて、前日はよく寝て、イメージトレーニング
の方が、大切だったりする。カレーや、煮物や、漬物のように、
自分のなかに音がじんわり沁みていく、きちんと入り込んだ
という感覚がないと、浮ついて、カップラーメンのような音になってしまう。


音にも温度がある。音に熱を加える。音を調理する。
楽譜はレシピ。演奏家は料理人。聴衆はそれを味わう人。

人が生きているということは、何かに熱を加えるということなのかも。

いつも温度が高ければよいということはない。
作品によっては、冷たいまま、お出しした方が
よい音もある。それは、沢山のレシピを読んで、
作ってみた経験が、ものをいう。

歴史と同じく、「その当時の当たり前のことは書いていない」
ということが、往々にしてあるということを、念頭に置く必要がある。

音はもともと語りだったわけだから、
その語り方、発音、つまりアーティキュレーションにも
とても気を使う。楽譜の書き方も、時代によっても、
作曲者によっても、微妙に変化し続けている。

演奏家は、紙の上の音を、どのように音として実現させるか、
ということが、本質なので、楽譜をじっと読むことそのものよりも、
とにかく色々音に出してみる、ということが、大切な作業だが、
楽譜を、本のように、黙読することは、実際には、とても大切だ。

音楽家のなかで、
楽譜を誰よりも黙読しているのは、
おそらく、指揮者だろう。

自分では音を一音も出さない音楽家、というのは、
考えてみると何だか不思議で滑稽でもある。

オーケストラという、大きな大きな楽器を前に、
時に踊るように、時に瞑想するように、
体を動かし続けるその人は、オーケストラの
司令塔であり、脳でもあるだろう。
それには、まず楽譜を深く深く読み込む必要がある。
自分では音を出さない分、常に沢山の音を一度に聞いて、
それを、操り、波をつくり、渦をつくり、熱を加えて、運転する。

一方、演奏家は、料理人でもあり、俳優とも似ている。
指揮者と同様、台本を読み込む作業の末に、
実際に、ことばを、音にして、熱を加え、感情を加える。
読書から朗読へ。書きことばから話しことばへ。
解凍して、熱を加えて、生の声にする。


書きことばを黙読する感じ。
黙々と淡々と読む感じ。
その感じと、話しことばへと変換していく、
その「あわい」を、はっきりさせず、
もう少し、とけさせてみようと、最近試みている。


読むことと、話すことを、考えている。


沈黙と無音には違いがある。
沈黙にも音がある。
沈黙に耳をすます。



今日の言葉*

音は始めから時間のなかに存在している。
視覚は時間を疎外あるいは客観視し、
聴覚は時間を前提あるいは内在化する、といってもよいであろう

ヒトの脳は視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを
いわば「無理」につないだのではないか。
その「無理」が意識的な考察では年中顔を出す。
我々は聴覚言語と視覚言語の統一を当然だと考えている。
当然だと思っているからこそそこに
心身論、構造と機能、粒子と波動といった逆理が顔を出す。

養老孟司さん(「唯脳論」)
by sachiolin | 2012-02-16 02:24 | 考〇