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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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いきなり、彼は駆けだした。

私は子どもが大好きで、今日はパパの弾くオペラを
ママと観に来ていた、デイヴィット君と公演後少し遊んだ。

ドイツ人と韓国人のハーフの彼は、
始めこそ恥ずかしがって、パパの足に絡まっていたが、
そのうち目をくりくりと輝かせながら、私とも元気に話して走り回った。


「僕走るの速いんだ、きっと君より速いんだから。」と
デイヴィット君は鼻の穴を膨らませ、頬がぽーっと赤くなった。

「そうかー。そうだろうねぇ。むふふ」と
私は、さらさらでふわふわした栗色のきれいな
その髪の毛を、くしゃくしゃと撫でまわした。

「よーし。じゃここがスタートラインだよ。
いい?かけっこ、よーいどん!」


いきなり、彼は駆けだした。

「こら待て、こら待て。」

私も、付き合うように追いかける。
たまに彼は振り返ってにかっと笑う。

「こら待て、こら待て。」

人とぶつかりそうになりながらも、
うまくすり抜けて小さな生き物は
確実に前へと勢いよく進んだ。

「よぉし、ほら、掴まえた!
ここ沢山ひとがいるから危ないよ。
もうやめようね。いい?」

と私が言い終わらないうちに、
私の腕を強引に、けれど、うまく振り払って
いきなり、彼は駆けだした。


今度は後ろを振り返りもしない。
今度はにかっと笑いもしない。
一目散に駆けていく。

ぐんぐんぐんぐん駆けていく。

なにかから突然力を得たように、
小さな生き物はずんどこずんどこ突き進む。

彼の前には、車がびゅんびゅん走ってる。
彼は気にせず、ぐんぐんぐんぐん駆けていく。


パパが叫ぶ。
パパが走る。


私も必死に追いかける。


断崖絶壁の海に向かって
小さな生きものが駆けていく。
どんどん私たちを離れていく。

だめ。いっちゃだめ。

その先は、海だよ。暗黒の海だよ。
立ち止まって、振りかえって、笑って。




地面が落ちる直前で、海が始まる直前で、
小さな生きものは、大きな大きな
パパの腕の中に抱きとめられた。

パパは爛々と輝く二つの瞳をじっと見ながら
静かにしっかり叱った。パパの本気がつたわって
小さな生きものは、しんとして、こくりこくりと頷いた。


私は、何だか一瞬泣きそうになってしまった。



子どもは、危うい。
子どもは、儚い。

おとなが、じりじりとこわがって歩く崖っぷちに向かって
子どもは、迷いもなく力強く朗々と駆けてゆく。

暗黒の海の音は、暗黒の荒波の音は、
彼らには聞こえているのだろうか、
聞こえていないのだろうか。

彼らには何が見えているのだろうか。
彼らには何が聞こえているのだろうか。


私には、わからない。
私は、ただ、忘れてしまったのだ。
忘れてしまっているのだ。

子どもからいつの間にか
おとなになってしまった私の目に、
暗黒の海に向かって突き進む、
そのいのちの塊は、あまりにも眩しかった。
あまりにも美しく燃えていた。あまりにも強く。

私の心の古いねじり糸を、一瞬激しく燃やした。



危ういのはどっちなんだ。
危ういのはおとななんではないか。
死ぬことをおそれる私たちなんではないか。
生きることをおそれる私たちなんではないか。

私たちはいつから、かなしみを知り
私たちはいつから、おとなになってしまったのだろう。
私たちはいつから、あの駆ける力を失ってしまったのだろう。

あの眩しい、美しい、強い力を。



今日の言葉*
「小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、
母をことさら醜くしているものは何だと私は考えた。
母を醜くしているのは…それは希望だった。
湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、
汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。」
(三島由紀夫・金閣寺)
by sachiolin | 2009-12-07 08:13 | 思〇