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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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すごい映画だった。

もっとシンプルで、きゅーんと泣ける恋愛映画かと思っていたら、
とんでもない。一回では分からないくらい複雑にできていた。
おかげで、全く泣けなかった。笑。でも思い出すとじわじわジーンとする。
もう一度観たら、いろいろなことがもっとジーンとしてくるのだろう。

記憶。

固体のようであり、液体のようであり、気体のようであり。
水が形を変えるように、記憶も形を変える。
いろんな記憶がとけて混ざったりもする。
時を経ても変わらない記憶もある。
変えたくない記憶がある。

凍った川の上の二人。
記憶のなかを旅する二人。
記憶のなかでかくれんぼする二人。


忘れること
忘れられること
忘れられないこと
忘れたくないこと


忘却。記憶。夢。感情。愛。
いろんなことを思った。

それにしても夢の世界を、
こんなにリアルに映像にできるなんて。

すごすぎる。また観たい。

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今日の言葉*

「真の幸福は罪なき者に宿る。忘却は許すこと。
太陽の光に導かれ、無垢な祈りは神に受け入れられる」
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by sachiolin | 2013-09-18 02:16 | 観■Film | Trackback | Comments(0)

夢 ///  高橋悠治

「理論からははじまらない 眼に見えるものではなく 手をうごかし 問いかけるうちに 直線ではなく 揺れと襞 ずれる時間 複数のシステム 断片をまとめたり ととのえたりしないで それぞれに裂け目を入れ 断層をのぞかせ 聞こえないものを聴き 手探りで方向を変えながらすすむ

記憶と夢のあいだ というより 思い出せないことを思い出し まだどこにもないものを夢みるのが音楽だ という ますます強くなる予測に突き動かされ 手をうごかすなかで新しい発見がある それはまだことばになりきれないままで 途切れるとそのまま消えてしまう輪のように かたちもなく 宙に浮いている

煙のように空中に消えるもの 断片をモンタージュして何かを構成するのではなく 全体と部分の階層性を作らないもの 断片を断片のまま変形し 規範からはずれ 予測できない空間にひらくもの 生きる時間の闇のなかで微かに光る徴 哀しみの明るさ 夢の手触り

音楽は音のうごきであり 聞く耳と楽器や声を使う身体の運動感覚や内部感覚 それに感じというとらえがたいものによって維持されている 音は止まれば消え 音楽はとどめようもなく過ぎてゆく それだから消えた記憶をよみがえらせ まだない世界を予感する それが音楽の社会性あるいは政治性なのだが ことばのように世界内の存在や状態を指し示したりするというよりは 「いま・ここ」でないところに注意を向けるきっかけになったとしても それも文化的環境や歴史状況に条件づけられ 主体的な意志をはたらかせなければ何も響いてこない しかし そのあいまいさが音楽の強みでもあり 逆に ことばと結びついたときは相互作用によって強い力をもつことがある

国家主義と古典主義はおなじ側にある 規律や構成のように外部的で静的なバランスにもとづく管理 記号や表象の操作 内面化した自己規制 全体が矛盾なくたった一つの原理あるいはたった一つの構成要素から説明できると考える超合理主義 複雑性やあいまいな状態をデジタルな二分法で還元すること 方法主義 そうしたやりかたで裏打ちされた「新しい」単純性 これが1930年代以来の現代音楽の病気だった 演奏スタイルや ちがうジャンルの たとえばポップについても 似たような現象を指摘することができるだろう

音を物・記号・表象として操作しようとするとき 音を手段として構成される抽象的・普遍的全体 あるいは表面に民族主義・伝統美学・アジア思想を思わせる要素を貼付けてはいても 画一化された均質な部品でモジュール化された現代音楽は フェスティバルという見本市で消費されるだけのもの それは非商業的と言っても じつは少量生産される文化の「贅沢品」として 国家や財団の先物買いの対象になる

音楽は「いま・ここ」に留め置いて味わったり 分析し定義し 理論的に再構成するしようとしても かなたへ逃れて とらえどころがない 音楽論や音楽美学や音楽批評は 音楽の創造には追いつけないだろう ことばで語れるのは可能性でしかない それでもそのようなことばであれば それらの語る自由な夢が 音楽の社会的機能を維持し活性化するのにこの上ないはげましともなってきた ここにあるものではなく どこにもまだ現れていない音楽の夢を語るものである限りは

歩きながら問いかける 問いかけながら歩く これがサパティスタのはじめた運動論だった 1994年のことだ それ以来 ちがう領域でのさまざまな試みを参照しながら すでになされた行為の結果を分析する方法や それ以上変化しない素材や それ以上分解できない単位を組み合わせて作る秩序ではなく うごきつづけ変化してやまないプロセスのなかにありながら それ自身について考える可能性が見えて来た 再帰する生命・意識・認識システムや社会システムをあつかおうとするオートポイエーシスのようにまだ発展途上の理論や 生きている身体が心であることを内側の感覚を維持しながら意識し続ける仏教的な方法 さらに「いまだない」を哲学するエルンスト・ブロッホ doingとdone power toとpower overを区別して存在ではなく可能性から反権力の政治思想を導きだすジョン・ホロウェイ どれも完成された理論ではなく そうなるはずもなかった

音楽は いまある世界をそのままにしておこうとする権力や制度とは もともとあいいれないものだった だが 権力はいつも音楽を自分の側にとりこみ その想像力を自分のために使おうとしてきた だから音楽作品は 完成されたものであるほどゆがみ 可能性は消耗させられ 夢は砕かれ 抑圧され 逆転して その断片だけが散乱している 未完成なものほど 見えない芽をどこかにひそめて 発見される時を待ち望んでいる」


(高橋悠治「記憶と夢のあいだ」)
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by sachiolin | 2011-06-05 18:12 | 夢 /// | Trackback | Comments(0)

電車のなかで。

電車のなかで、本を読みながら、ぐっときたところに、
鉛筆で線を引いていたら、隣りのおじさんが、覗きこんできて、
うんうんなるほどという感じで、頷いた。まるでスイッチを
押したかのように、そのままその人は、頷きモードに入ってしまい、
私が席を立つまで、ずっと何かに納得していた。

知らずに、人さまの大切なスイッチを押してしまったかと
少し悪い気持ちになって、閉まる電車の扉を振り返った。


小さいとき、ガタンゴトン、という電車の音が、
線路の継ぎ目なんだと知った時に、少しショックを受けた。
あのリズムもあの音もあの感じも、電車自身が電車だけで
作っていると思いこんでいて、それが好きだった私は、
軽く裏切られたような気持になったのだった。

小さいとき、電車の窓から、見える電線の動きが好きだった。
いつも靴を脱いで、立て膝で電線をじっとみていた。
電信柱や他の電線とくっついたり離れたりしながら
動いていく電線は、まるで生きているようで、ずっとじっと見ていた。


こどものときの記憶は、ずっといつも不思議。


今日の言葉*

古代社会では口に出したコト(言)は、
そのままコト(事実・行為)を意味したし、また、
コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として
表現されると信じられていた。それで、言と事は未分化で
両方ともコトという一つの単語で把握された。
 ところが奈良・平安時代以後になると両者は次第に
分化してきて、「言」は「コト(事)のすべてではなく、
ほんの端にすぎないもの」を表す「ことのは」、
「ことば」として事から独立するようになった

(木村敏「時間と自己」 )
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by sachiolin | 2010-12-16 02:04 | Trackback | Comments(0)

形状記憶シャツ

今日は久しぶりの仕事だった。

久しぶりだのに、いきなり、
超難しい、エレクトラ。

おまけに、1週間ほど楽器なしで
純粋なる旅をしていたので、
楽器を弾くこと自体が、
「久方のぉぉ光のどけきぃぃ・・・」という
感じだった、このワタクシ。

もはや、
楽器は左でしたっけ?
弓は右でしたっけ?
というレヴェルで(←言い過ぎ)
どうなることやらと思ったが、
どうにかなったのね、コレが。

楽譜を見て、弾き始めると、
体が戻ってきて、体にきちんと、
音楽が「記憶」されていて、
きちんと弾けるのね、コレが。

まるで形状記憶シャツ、デス。


自分の無意識層にある記憶が
音楽の力に引っ張られて、
勝手に体が動きだす感覚が、
妙に面白かったし、妙に不思議だった。

少しの間、日常を離れてみて、楽器を離れてみて、
久しぶりにオーケストラの響きの中に埋もれてみて、
この音の感覚というのは、非日常的だと、改めて思った。

耳の周りがふわーんとする。
脳がびりびりと振動し、脳みそがとけていく。 

自分がこんな非日常な日常を送っていただなんて、
いつの間にかこんな道を歩んでいただなんて。
ううむ。うれしかなし。ちょっと戸惑う。


この前、友人とメールのやり取りをしていて
気付いたのだが、私には、「演奏家になろう」と
決心した日というものが、多分ない。

「好き」を追いかけて、何かの力に引っ張られて
何となく、ずるずるとここまで来てしまった。

いや、それでこうして生きているのだから、
ものすごくラッキーでハッピーなんだろうけれど。

ちょっと自分を取り囲んでいる輪から離れて、
いろんなことを遠くから眺めてみると、
ちょっと取り返しがつかない感じがする。

現に、この練習嫌いの私でも、
1週間弾かなかったら、「弾きたい」という
欲求が湧いてきたのだ。考えるとか思うとかではなく、
ふつふつとした純粋なる欲求。それは、食欲や睡眠欲と
同じレヴェルの欲求なのだ。演奏欲とでも名付けるか。

何だかそれは、もう、多分
自分にとって生きるための欲求なのだ。
最早、演奏することは、
やめられない、とまらない、
カッパエビセン的な欲求なのだ。

取り返しがつかないね、コレ。


以前、愛すべき妹分が、
「私たちみたいに、もうヴァイオリンなんて
やめてやるーやめてやるーって言っている人に
限って、もう死ぬ―死ぬ―って言っている
おじいちゃんみたいなもので、なかなか
死なないし、やめないんですよ。」
と言っていた。

妹よ、そうかもしれぬ。




今日の言葉*
「学んだことを復習するのは、覚えるためではない。
何回も復習するうちに、新しい発見があるからだ。」 
(ユダヤの格言)
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by sachiolin | 2010-05-18 09:08 | Trackback | Comments(0)

手帳

この前、来年の手帳をやっと買った。

町中の本屋さんと文房具屋さんをうろつき回った。
何しろ、手帳って毎日毎日持ち歩くものだし、
思いつきや、何やらたくさんメモするし、
運命共同体、思考共同体、人生共同体のような
大切な存在なのだ。一年限定の濃厚なお付き合い。

こちらが、ここ何年かの私の分身たち。


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こうやって積んでみたり、さわってみたり、
ひさしぶりに中身を読んでみたりすると、
昔の自分のかけらたちが、そこでまだ
どくどくと生きていて、しみじみとする。

字の感じで、その時の心の状態が伝わってくる。

ものすごく頑張っていたとき。
ものすごく悲しかったとき。
ものすごく嬉しかったとき。
ものすごく興奮していたとき。

あまりに悔しかったのか、ぐちゃぐちゃぐちゃと、
黒々と書きつぶしているところもあった。

考えてみると、自分がこんなにメモ魔になったのは、
何年か前に、松村さんのページを読んでからだった。
それまでは、もやもやと考えることがあっても、
別にそれを気にとめることもなく、書きとめることもなかった
私だったが、松村さんのあの独特のメモ、言葉と思考のつながりは、
当時の私に、センセーショナルな風を巻き起こした。
あれを真似して、日々の思いつきを書きとめるようになり、
そのうち、日記も書くようになり、ブログも持つようになり、
そのようにして、自分が考えることと、文章を書くことが
この上もなく好きらしいということが、分かってきた。
自分の好きなことを発見するのは、面白い。

あの時、ああやって刺激を受けていなければ、
こうして書きとめることもなく、自分を発見することもなかった
かもしれない。松村さん、ありがとうございます^^。



さて、来年の運命共同体は、こちらに決まった。
なかなかかわいいでしょう??
黒い帯は、ゴムの質感で中に磁石が入っていて
ぱちんといい感じで閉まるのです。
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Paperblanksという会社のもの。
ドイツの大きい本屋さんなら大抵置いてある。
にも関わらず、なんで今まで手を出さなかったのかなぁ。
なかなか、素敵なデザインが目白押しでかなり迷ったが、
自分のラッキーカラーはブルーだし、手にした時に、
ふっと落ち着いて、自分の体と馴染んだので決めた。

私のオーラや私の音は深いブルー色だと
言われることが、最近何度かあり、
何だか嬉しく感じている。好きな色だから。


今日はこの手帳君についに初書き込みをした。
ちょっとドキドキしてしまった。
新しい手帳に書き込み始めるときは、
これからどうぞ1年よろしくと思う。

この手帳の半分は、きっと日本で書いてるんだと
思うと、わくわく半分、不安半分。拠点が変わると
いうのは、いやはやなかなか人生の節目ではないか。

日本で、うまくやっていけるのだろうか。
ドイツを、離れていいのだろうか。
この、今の安定した生活を手放していいのだろうか。
今更ながら、ふとそんなことを考えたりもする。

いや、心のためにも体のためにも、来年日本に帰るべきなのは、
来年がベストタイミングだということは、自分自身が誰よりも
一番分かっている。ただ、やはりどこかでこわいのだろう。

場所が変わることが。
周りの人が変わることが。
自分が変わることが。


でも、きっと、この地で感じてきたこと、思ってきたこと、
考えてきたこと、たくさんの人から与えてもらったこと、
教えてもらったこと、授かったもの。それらは、自分の体のなかに、
自分の心のなかに、記憶されていて、蓄積されていて、生かされて、
生きているから、きっと大丈夫だと、そう思う。そう願う。

人は、忘れる生き物だから、
ときどき、こわくもなるけど。
ときどき、とてつもなく切なくなるけど。
ときどき、ぽつんと立ち尽くすけど。

忘れられるから生きてもいられるんだろう。


大人になっていくと、大切なものを失っていくけれど、
それはそれだけ大切なものに出会ったという証拠であって。

誰かから与えられた宝物は、いつの間にか、何かに変換されて、
私から次の誰かに、手渡されていく。失っているようで、
失っていないのかもしれない。回っているだけなのかもしれない。
バトンリレー。あなたからわたしへ。わたしからあなたへ。


こわくなったら、手帳をみなおそう。
こわくなったら、手帳をなでよう。


よしよしよし。




今日も毎日、書きこもう。
今日も毎日、忘れよう。
今日も毎日、感じよう。





今日の言葉*

「認識とは人間の海でもあり、人間の野原でもあり、
人間一般の存在の様態なのだ…美的なもの、君の好きな美的なもの、
それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余の部分の
幻影なんだ。君の言う『生に耐えるための別の方法』の幻影なんだ。」
(三島由紀夫「金閣寺」より)


***写真のつづき


最近クリスマス市で出会った、超お気に入りのお二人。
ツリーになってしまったサンタは、初めて見ました。かわいすぎデス。
この二人が視界の隅に入るとどうしても見つめてしまいます。かわいすぎデス。
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コチラも、今年の新入りのサンタさん。担いでます。
今日もがむばって担いでます。
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横から見ると、昔見た、行商のおばあさんのようです。
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こちらは、私がドイツに来て初めての冬に買ったサンタさん。
帽子は何年も忘れたままであります。寒そうだなぁ。
>MYさん、花瓶このように↓大切に使わせていただいております^^。
そっちにピントが合っているのも、私の念力です。笑。
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by sachiolin | 2009-12-12 10:41 | 思〇 | Trackback | Comments(0)