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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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by sachiolin | 2012-07-02 03:01 | 観■TV

聴● クセナキス

クセナキスを聞きながら、
(拡大して、図形を見ながら聞くのも面白い)



ハッブル宇宙望遠鏡が見た宇宙を見ていると、
かなり、すごく、ワープする。



c0110074_19302212.jpg








今起きていることも、この大宇宙のなかの、
この無数の銀河のなかの、ほんの一つの惑星のなかの
ほんの一瞬のことなのだと思うと、ふ・し・ぎ。


たとえば、自分という生き物は、
60~70兆個もの細胞が集まってできている。
それはひとつの宇宙ともいえるとも思う。
(NHK 人体の不思議 を見てみたい!)

それは、この大宇宙のなかの小宇宙であり、
ひとことに「自分」といっても、細胞ひとつひとつが
別々にきちんと生きたり死んだり、生まれ変わったりして
それらが集まって、ひとつの生命体として、生きているのだなあと。

当たり前なのだけれども、ふ・し・ぎ。


もっと不思議なのは、心である。
これこそ、変幻自在の宇宙である。


心と体がひとつになって、
ひとりの人間が生きている。


真の演奏、真の藝術にふれるとき、大宇宙を感じる。
それは、自分のなかに抱えている小宇宙が呼び起される
感覚であり、大きな物語、大宇宙に包みこまれる感覚である。

小我から始まって、大我を、
小宇宙から始まって、大宇宙を
小さい物語から始まって、大きな物語を
見つめていたいなあ、と感じる。






今日の言葉*

「『ひとりぼっちだなぁ』という感覚は、
きりきりっと寒い冬の夜の、
北極星のようなものじゃないのかなぁ。
そのほのかな光が見つけられてないと、
じぶんがどこにいるのかわからなくなっちゃう。
『ひとり』が、まずすべてのはじまりです。」

(糸井重里 「羊どろぼう」)
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by sachiolin | 2011-06-05 19:47 | 聴●

聴● Prokofiev × Szigeti

思わず何度も聞いてしまう。
聞く度に泣きそうになる。

さざ波のような弦楽器のトレモロに乗って、
ヴァイオリンの美しいソロが始まると、
私の中の、心の深い扉が静かに開かれる。

なんだろう、この感じは。

目を閉じて聞いていると、その開かれた扉から
誰かに手をさしのべられて、そのまま
宇宙の果てにまで持って行かれそうになる。

やさしくて美しくて強くて不思議な力。
金色というよりは銀色。


りズミックな、星の衝突のような
激しい鮮やかなストーリーが一通り終わると、
曲の最後に、はじめのメロディーが、
今度はオーケストラの色々な楽器で演奏される。
微かに聞こえる、ハープのポロンポロンという音に乗って
今度はソロヴァイオリンが、さざ波になる。


深い孤独と漆黒の闇をはるかかなた通り抜けて、
すべてがとけあって、ふわふわと気持ちよく
宙に浮いているような、何とも不思議な感覚になる。

まるで、夢を見ているようだ。

この楽章を聞くと、自分の中で、
何かが死に、そして、何かが生まれる。


昔この曲を勉強したときにちょうど読んでいた、
ゴーゴリの文章が、この曲の持つ美しさと
ひどく似ていて、楽譜に長々と書きつけた。

今、手元にないから、書けないのが残念だ。


昔も、今も、私はこの曲のこのシゲティの
演奏が、大好きなのだ。特別に。





今日の言葉*

「終わりと言うものは無い。始まりと言うものも無い。
人生には無限の情熱があるだけだ。始まりと思うのも自分、
もう終わりだと思うのも自分。」

(フェデリコ・フェリーニ)
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by sachiolin | 2010-09-02 12:22 | 聴●

思〇宇宙のひとしずく

自分が生きているというその事実は、
はるかかなたから続く人類、
宇宙の大きな物語の一滴である
ということに他ならない。

そういう意味で、音を出すことも
生きることも「つなげる」ことなのだと思う。

だからこそ、自分に対するエゴではなく、
他者・世界に対するリスペクトが大切になってくる。

結局自分は自分であって自分ではないから。


われらみな 大きな宇宙の ひとしずく
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by sachiolin | 2010-05-30 11:05 | 思〇

どかん。

こんなにも年末年始感がなかったのは初めてだった。
大晦日になって、1年の疲れが出たのか
ちょっと湿疹が出たこともあって、仕事の後は、
割とすぐに家路についた。気の早い人たちが、
あちこちで爆竹や花火を始めていた。

大晦日は、唯一花火で遊んでよい日ということもあってか、
皆花火を買い込んで、0時になると、町中で花火をあげる。
人に向かって花火の火をつける人もいて、あんな中、町中にいたら、
普通にかなり危険だ。私は正直言って、あの雰囲気が
あまり好きではない。年越しとお正月はやっぱり日本だよなぁと
毎年思いながら過ごしてきた。来年は日本に本当にいるのかなぁ。
あまり、想像ができない。どうなっているのかしら。


電気を消して、ろうそくを灯し、ジンジャエールを飲みながら
キッチンから、ぼーっと、本当に何も考えずに
ぼーーっと花火をみた。うちのキッチンからの眺めは最高で、
花火があちこちから上がる景色は、想像以上にきれいだった。

0時0分から、0時40分くらいまで、
休みなしで、暗闇に、爆音と花火がはじけ続けた。

花火が上がっているところには、
人がいるんだよな、しかも一人くらい知っている人が
いるかもしれないけど、ほぼ全員が知らない人なんだよなと思うと
何だか不思議な気分がした。こんなにあちこちで人が生きてる。

宇宙の歴史からみたら、神様からみたら、人の一生なんて、
案外、この花火のような、一瞬の出来事なのかもしれないなぁと
何だか、不思議な気分になりながら、相変わらずぼーっと眺めた。
どかんどかんと上がってはあっという間に消えていく花火たちを
見ていたら、いろんな人の顔が浮かんだ。長らく会ってない人も
最近会った人も、ドイツにいる人も、日本にいる人も。
みんな元気かなぁ、みんな元気でいてほしいなぁと、思った。
来年の今頃、自分は生きてるか死んでるかも分からない。
会える人も会えない人。会う人会わない人。
そういうのってどうやって決まるんだろう。
とにかく、みんなが元気でありますように、笑顔でありますように。
そう、静かに願った。こういうのが、祈りってものなのかもしれないとも思った。



花火見物は、なかなかいいものだった。

ジンジャエールに飽きたので、日本茶を淹れた。
我ながら、なんて渋い年越しじゃろう…と
お茶をずずずと啜った。


火の力、爆発の力は、相変わらずすごかった。

何よりもその爆発音が心臓にどかんどかんと迫ってきた。
戦争のときは、さぞや怖かっただろうなと思った。


光そのものよりも、それに一瞬だけ照らされる建物や
窓たちに、ドキッとした。なぜだろう。この前見た、
ビクトル・エリセ監督の「みつばちのささやき」の
ワンシーンが、鮮烈に思いだされた。


昨日からの続きで、淡々と淡々と元旦が過ぎるはずだったが。
昨日の花火のように、どかんと、仕事でミスをしてしまった。
何も年の初めに、どかんと、することないのにナ。トホホのホ。


大いに反省して、明日から、身を引き締めていきませう。


…ということで、反省モードなので、
一日が切り替わってから、
モードがきちんと切り替わってから、
新年のご挨拶は、また改めまして。



今日の言葉*
「人生は祭りだ。共に楽しもう」
(フェリーニ)
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by sachiolin | 2010-01-02 09:14