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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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綴〜〜 ことば

ことば

語られなかったことば
聞かれなかったことば
受けとられなかったことば
ことばになる前のことば
ことばになった後のことば



ことば

言の葉
言の場
ことばの居場所



ことば

消えていくことば
消えないことば
残ることば
残らないことば



ことば

いくらでもうそをつく
かぎりなくほんとうにちかづく
それでもほんとうはにげていく


ことば

人を傷つける
人を力づける
人を打ちのめす
人を救う
人を変える


ことば

ことばは包丁
ことばは風呂敷
ことばは宝石
ことばは日だまり
ことばは風
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by sachiolin | 2012-10-29 09:52 | 綴 ~~ | Trackback | Comments(0)

刹那に身を投じる

距離感。

人との距離。自分との距離。
過去との距離。未来との距離。

人や自分との距離感は何となく分かる。

でも、いったい本当に
過去との距離や未来との距離って
あるのだろうか。
私もそれなりに生きてきたけれど
うんと昔のことや、つい最近のことが
なんだかとても遠いことのようにも
なんだかとても近いことのようにも感じる。

とても不思議だ。

:::::::::::::::::::::::

未来は、まだここには存在しない。
過去は、もうここには存在しない。
ゆえに、未来や過去が存在するとしたら、
「今ここ」の現在以外に考えられない。
つまり、未来とか過去といったものは存在しない。
未来は、まだここには存在しない。
過去は、もうここには存在しない。
ゆえに、未来や過去が存在するとしたら、
「今ここ」の現在以外に考えられない。
つまり、未来とか過去といったものは存在しない。

(アウグスティヌス)

:::::::::::::::::::::::

ごもっともすぎる。
ごもっとすぎて、二の句がつげない。

そう。

確かに、常に今現在しか、現に存在しない。
かなしみやよろこびがあるのではなくて、
それらを感じる今がある。
それらを感じる今の自分がある。

他人と過去は変えられないというけれど、
そういう意味では、過去や未来は
変えられるのではないかとも思う。
今は、刻々と変わっていく。
二度と訪れない一瞬が、刻々訪れては消える。

刹那に身を投じるということ。
そこには執着も、泥もない。
執着や泥に変わる隙をゆるさない、刹那。

掴みかけたときに、指からするりと抜けてゆく。
ウナギのようなそれは、永遠につかまらない。

でも、人生では、なにかの加減で
そのウナギがふと手の内に
舞い込んでくることがある。その刹那を
きちんと味わおう、きちんと記憶しようと思う。






それにしても、時間について考えだすと
頭がおかしくなりそう。危険。
存在がゆらぐというか。なんというか。
それだけ魅力があるとも言える。




今日の言葉*

水平は、時間や前後や道や、また因果性の次元を意味する。
垂直は、永遠なるものや常にあるものや創造的なものの次元を意味する。
その両方が交差する箇所が、”今、ここ”なのだ。時間のどの瞬間をも
絶対者との関連に見ることは、苦しみを受け入れることである。 

ミヒャエル・エンデ「エンデのメモ箱」
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by sachiolin | 2012-10-24 12:17 | Trackback | Comments(0)
音やメロディーやハーモニーは人間全体で体験されるのです。そして、その体験は独特の方法で、耳をとおして意識にいたります。わたしたちが通常考える音は、空気を媒体とします。管楽器を使うときも、音は空気という要素のなかに生きます。しかし、わたしたちが音のなかに体験するものは、まったく空気と関係ありません。耳は、音体験のまえに、空気を音から分離する器官なのです。耳は、空気のなかに生きる音を人間の内面に反響させる器官なのです。

…中略…

音楽体験において、感覚体験はほかの体験よりも本質的に内面化されます。音楽体験にとっては、耳は本来、反響器官にすぎないからです。耳は、目とおなじような方法で人間を外界と関係させるものではありません。目は、あらゆる可視的な形態、可視的な芸術的形態に関して、人間を外界と関連させます。目は、自然観察者だけでなく、画家にも考慮されます。目のように外界と結びつくことなく体験されるときにのみ、耳は音楽家にとっても考慮されるものです。耳は、もぱら反響器官であることによって、音楽にとって考慮されるものなのです。

ルドルフ・シュタイナー「音楽の本質と人間の音体験」
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by sachiolin | 2012-10-24 04:11 | 空 ( ) | Trackback | Comments(0)
帰り道、月が美しかった。今晩は、どうしても、チーズケーキに見えてしまった。色の具合や、質感も、チーズケーキにピッタリだった。街灯に照らされるプラタナスの葉も美しかった。葉っぱというのは、裏側も美しい。というより、裏側が特に美しいなあと、昔から感じる。細い血管が巡る、儚く美しい肌のよう。樹には気が流れているから、さわってみるとよいと、立ち読みした本に書いてあったから、こっそりさわってみた。確かに。。


今日の言葉*

人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である」と精神療法家ユングは、その『自伝』の中で述べている。そして、このような秘密をもつとき、「多分生涯において初めて、自分自身が主人であると思い込んでいた自分のもっとも個人的な領域の中に、自分よりもより強力な他者の存在することを、目の当たりに顕示されることになる」と述べている。

河合隼雄「中空構造日本の深層」
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by sachiolin | 2012-10-24 04:10 | Trackback | Comments(0)

考○鍋の底

ここはしばらくご無沙汰になっていた。
ここはもう店じまいしてもよいのかもしれない。
…と言いつつ、書いたりして。
…ということを、何回か繰り返した気がする。



最近考えていたこと。


言葉で言えないことを心を尽くして言葉にすることも大切だけど、
言葉で言えることをぐっと堪えて言葉にしないことも同じくらい大切だなあ。
子どもと大人について考える。秘密について考える。

鍋の底にこびりついた汚れは、その場でゴシゴシ洗うのでなくて、
一晩水につけておいた方が、簡単によく落ちる。
人生には、往々にして、そういうことってあるものだ。

「ことばは包丁です。決して投げてはいけません」
ということばを思い出している。




今日の言葉*

僕はただいっしょうけんめいに黙々と働いて、運命の導くままに生きてきたので「何歳までに何をしなくては」というようなことはとくに考えませんでした。そういうことって、他人といちいち比べてもしょうがないことですよね。夏目漱石さんは、たしか40歳位くらいで小説を書き始められたと思います。そして50くらいでなくなられました。人にはそれぞれの人生のペースがあります。しっかりと耳を澄ませ、自分の歩むべき速度を感じ取る事が大事なんだと思います。他人のことはあまり考えない方がいいです。

(村上春樹)

::「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?
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by sachiolin | 2012-10-24 03:48 | 考〇 | Trackback | Comments(0)

引用:: 岡潔「天と地」

疑いをおこし強く打ち消している「ある」ではなく、さやかに冴えた「ある」を大切にすること。肉体と花園。濁りと澄みやか。重さと軽やかさ。地と天。その境い目。そのけじめ。とてもとても大切なこと。岡潔のことばに救われる。心の夜明け。静かな夜明け。

 ここにわたしの家の花園があります。花はいま一つもありませんが、目の前にみどりの花園がある、と思ってください。そうすると、これは「ある」としか思えないでしょう。感覚があって、それに判断がともなうというだけではありません。だから正確にいえば、それらに加える「ある」という」実感があるのです。つまり、存在感があるのです。
 ところで、あなたの肉体もあります。これも、いろいろなせんさくを抜きにして、いまある、としか思えないですね。それで、いちおうこれも存在感があるといえます。
 そうすると、目の前の緑の花園も存在感、あなたの肉体も存在感です。しかし、この二つの存在感は同じですか。なんだかちがいます。
 みどりの花園は、さやかに「ある」。しかし、自分の肉体はあり方がなんだか濁って「ある」。そのように思えるでしょう。もうすこしことばを加えますと、花園がある、というのは、「ある」ということに対して、疑いがおこらないのですね。
 ところが、肉体がある、というほうを仔細に見てください。「ある」ということに疑いをおこしそれをひじょうに強く打ち消して、「ある」と思うのです。
 そうなのです。この二種類の「ある」があるのです。
 さやかに冴えた「ある」と、否定を打ち消している「ある」です。
 一つは光の「ある」、もう一つは影の「ある」です。影は存在しませんが、しかし、存在するともいえる、その「ある」です。
 そのみどりの花園がある、という「ある」が冴えてくると疑いがまったくおこらない。そんなふうな「ある」です。これだけが「ある」という感じなのです。そうしますと、「あるような気がし」たらもうそれでじゅうぶんあることが信じられます。それを確かめたりしません。
 確かめるというのは、疑いをおこしてそれをより強く否定する。そうしてはじめて「ある」と思うことです。そういうあり方だけが、たしかにあることだとたいていの人は思っています。
 しかし、それは影の「ある」であってその影をとってしまえば、はじめは「あるような気がする」だけですが、それをじっとよく見ているともっとあるようになるのです。だんだんはっきりしてきて、あるという疑いをともなわない実感になるのです。 
 人と人とのつながりもそうです。真のつながりは、これを一度疑いそれをより強く否定する、という形式で、確かめたりはしません。それが心の紐帯(ちゅうたい)です。
 この「ような気がする」というのをたよりなく思って、影の「ある」を目標にしていたのでは、真・善・美どの道においても向上というものはありません。向上するほど「ような気がする」が自明な「ある」になってくるのです。疑いをおこしてそれを強く打ち消す、という形式ではけっしてそうはなっていかないのです。
 なにかいちいち文字に書き表して、それに認め印までおしてもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するというふうなつながりでは、つながっているということの実感はけっして出てきません。
 もう一度いいますと、さきのみどりの花園があるという「ある」と自分の肉体があるという「ある」とは、ことばとしては同じですが、実はまったくちがったものです。
 ここの境めが非常に大事なところです。さやかにあるという「ある」を「ある」と思っていると軽く澄んで天となり、疑いを強く打ち消す形の「ある」を「ある」とおもっていくと重く濁って地となります。だから天地はこの線で分かれるのです。このけじめがすこしでもわかるような気がしてくれば、それがあなたの心の夜明けなのです。

岡潔「情緒と想像」
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by sachiolin | 2012-10-08 01:18 | Trackback | Comments(0)