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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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<   2012年 04月 ( 11 )   > この月の画像一覧

今日は友人がカナダへ旅立った日。

今は、まだ空を飛んでいる頃だな。

数年前に出会ったばかりなのに、
もっとずっとずっと前から知りあって
いたような、どこか懐かしい気さえする。

一番辛いときに、助けてくれた。
さりげない、本当のやさしさで。


色んな話をしたなあ。
色んな歌を歌ったなあ。


ひまわりのような輝きで、
いつでも、どこへ行っても、周りの人を
温かく明るく照らすのだろうな。


私は、お別れがものすごく苦手で、
涙もろくて、これが最後かも!?と思った晩は、
ハグしながら、やっぱり泣いてしまった。

抱っこしていた、友人のベイビーが
心配そうに私の顔を覗き込んで、
それから、ニコニコの笑顔になって、
私に手をのばして、小さい手でハグしてくれたよ。
やっぱり、この子も、ママみたいに、
ひまわりっ子だなあと思った。


あんなに涙のお別れをしたのに、
その後、渡し忘れていた物を返しに、
ひょっこりまたお家を訪れて、
本当は、すぐに帰るつもりだったのに、
「今、寝かしつけたばかりなの。
すごいタイミング!旦那もいないし、
お茶でものんでいきなよー」と、
甘い誘いに思わず乗ってしまい、
韓国のりを、ばりばり食べながら
色々語った、ほんとうに最後の晩。

あれも、よい思い出。



あなたに出会えて、
本当に私は幸せでした。

どうもありがとう。


どうぞお元気で。また会う日まで。



ありがとう、さようなら。




出会った頃に、出会った曲。
いい曲だなあ。じーん。





aikoの歌声もステキ。



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by sachiolin | 2012-04-28 03:08 | Trackback | Comments(0)

道〓 三浦雄一郎さん

よくスキーをし、一緒に飲んだ岡本太郎さんは、世間の評価を気にせず、創造の自由を追求する信念を曲げない。スキーで転んでは、オレは地球と衝突したんだと威張っている。そんな人柄が、人がやがてやらないことに挑む冒険という道を歩み始めた僕に、何か教えてくれたのです。

(三浦雄一郎さん)
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by sachiolin | 2012-04-23 00:10 | Trackback | Comments(0)

ノスタルジー


・ノスタルジーの語源は「故郷へ帰ることができない心の痛み」 
・ロシアには人間の感情すべてを包み込む
 無条件の肯定〈魂の全体性〉への強い希求があります。 
・個人を超える大きな存在に自らを同化させたときに「熱狂」が、
 逆に疎外された時に「ノスタルジー」が生まれる。

(亀山郁夫さん)



ノスタルジーの語源は「故郷へ帰ることのできない心の痛み」だったとは。
日本語の「懐かしい」という言葉にぴったりとくる外国語はないなあと思っていた。
「ノスタルジー」だと大袈裟だなあと思っていた。でも、今や、日本には帰ることの
できない土地ができてしまった。懐かしいという柔らかい追憶ではない、心の痛み。

「ふるさと」はとてもよい歌だけれど、東北のことを思うと、
もう、切なすぎて、悲しくて、簡単に歌えない。
弾く度に、歌う度に、涙があふれてきてしまう。


今日の言葉*

自分とは異なる考え方を受け容れないのも、暴力のひとつの形である。
それでは真の民主的精神は、いっこうに育たない。

(ガンディー 「魂の言葉」)
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by sachiolin | 2012-04-22 22:34 | Trackback | Comments(0)
Salyuの歌声はパステルカラーだなー





コレオモシロイ


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by sachiolin | 2012-04-22 02:15 | 空 ( ) | Trackback | Comments(0)

引用:: ダーク

宇宙が何でできているかを調べてみると、われわれが知っている、陽子や中性子など”目に見える”(観測されている)物質は全体の約4パーセントにすぎません。その5~6倍は未知の物質(ダークマター)が占めていると考えられます。残りはダークエネルギーと呼ばれている正体不明のものです

さらに、現在の宇宙は、銀河、銀河団、何もない空洞などが複雑に連なった大規模構造を形作っていることがわかってきました。この成り立ちは次のように考えられています。初期の宇宙のわずかなゆらぎ(図3)からダークマターの密度に差が生じ、密度の濃いところは重力によってさらにダークマターを引き寄せていき、しだいに目に見える物質であるチリやガスも引き寄せ、やがて星や銀河が形成されていきました。このようにダークマターは宇宙の成り立ちに非常に密接に関わっているのです。

ダークマターの正体は分かっていませんが、これらの観測事実からいくつかのその性質が推測されます。(1)電荷を持たず、(2)非常に重く、(3)安定である、ことです。このような物質は、現在われわれが知っている素粒子では説明ができません。新しい理論に基づく、未発見の素粒子が必要となります。その候補の一つがニュートラリーノと呼ばれる素粒子です。
 
 われわれの身の回りにもダークマターは1リットル当たり約1個ほど存在すると考えられています。しかし、いまだ実験的に直接捕えられていません。ダークマターの直接観測は、現在の宇宙物理の最も大きな課題の一つです。直接観測に成功すれば、その正体を解明する手がかりが得られます。そして、ダークマターの正体が分かれば、宇宙創成メカニズムの理解が大きく進展すると考えられます。



世の中、わからないことだらけ。
ダークです。実にダークです。
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by sachiolin | 2012-04-18 01:26 | 引用:: | Trackback | Comments(0)

オレンジ色の太陽

今日は電車のなかから見た夕焼けがおそろしく美しかった。
オレンジ色の太陽が雲の間に静かに沈んでいった。
雨上がりの洗い晒しの街が、薄い灰色に浮かび上がった。
空恐ろしくて、美しくて、何だか、少し涙が出た。

「今」が濃厚に降りかかってくるとき、
わたしは、涙が流れる。宇宙から絶え間なく
降り注いでいるニュートリノのように、本当は、
「今」は私を突き抜けているのだろうけれど、
そのことを、いつもはすっかり忘れている。


自分の半減期は、いつなのだろう。
それを知る由もないのだ。生きている間は。
生きているとは、不思議なものだ。
今しかない。今の重なりでしかない。 


何もかもがかなしかった、苦しかったときのことを
不意に思いだした。そうしたら、また泣けてきた。

どんなに辛くても生きていればよいこともあると分かった。
生きていれば色んなことがある。これからも色んなことがあるだろう。
かなしいことも、辛いことも、嬉しいことも、喜ばしいことも。
最後には笑っていたい。ありがとうといえる自分でありたい。
生きていることには、ほんとうは意味などないのだろう。


自分というのは、かなしいほど不確かで
世界というのは、かなしいほどに開けている。

小我に向かうのか、大我に向かうのか。
小宇宙に向かうのか、大宇宙に向かうのか。 
世界は口を開けていつでも待っている。
その事実は、おそろしくもあり、美しくもある。


束の間の夢のごとく、永遠の夢のごとく
今日も星々がドカンとぶつかり、
命の蝋燭がチリチリと燃えるのだ。




今日の言葉*

「人生に必要なものは、勇気と想像力。それと、ほんの少しのお金です」
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」
「人生ってのは欲望さ。意味なんてどうでもいいじゃないか」

(チャップリン)
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by sachiolin | 2012-04-18 01:00 | Trackback | Comments(4)

観□ 石元泰博さん

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仕事の帰りに、鎌倉近代美術館で石元泰博写真展を見た。桂離宮シリーズ。石元さんの写真は、私にとってとにかく不思議だった。今までに体験したことのないような写真だった。沢山の作品をじっと見ていくうちに、石が石に見えなくなってきた。畳が畳に見えなくなってきた。あちらの世界が、こちらに流れ込んできて尚且つ変容するのである。私が朧気に分かったことは、石元さんの視線は、今まで私が様々な写真で感じてきた視線のどれとも異なるということだ。単なる「透き通ったガラス」ではない、単なる「あるがまま」ではない。対象そのものだけを撮っているのではない。単にこちらから、あちらを撮っているのではない。必然的に、その写真(あちら)をみている、私(こちら)も、単に対象そのものだけを見ていない状況になる。それは直線でもなく、一方通行でもない。それは曲線もしくは波動であり、ベクトルはあちらこちらへ揺れ動く。石がまわりの空気をとりこみながら「変容」し続ける。しかし、そこに物語がある訳ではない。寧ろそこには、物語はない気がするのだ。あるとしても、人間の頭が勝手につくり出す物語、ではないものである。あの石たちは決して語っていない。何かを語るものではない。そして、また、単なるむき出しの美しさとも違う。そのことが、少なからず、私を動揺させるのだ。なぜなら、むき出しの、あるがままの姿を、自分なりの視線で、そこに映し出すのが、写真であれ、映画であれ、音楽であれ、芸術と呼ばれるようなものだと、今まで思っていたからだ。石元さんの写真のなかの石は、とまっていない。それが不思議だ。一見あれだけ静謐な写真なのに、ゆらゆらしているんだ。かといって、変に生々しくもない。それに一瞬をとらえたとか、そういう次元ではないんだ。石を撮りながら、石を撮っていない。石の環世界、とでもいうべきものを撮っている気がする。石をとりまく世界。それは、ひとことでいえば、ゆらぎ、なのかもしれない。実在ではなく、存在というべきものかな。そこに、ただ石があるということをとりまくゆらぎ。見るという行為がどういうことなのか、ほんとうは私たちの目は何を見ているのか、そういうことを、ゆらゆら、もやもやと考えさせられた。

石元氏が、どのように、この桂離宮を撮ったのか、風の旅人に掲載されている。あれほどの完璧な大胆な構図を切り取るのに、時間をかけず、迷わず一直線に向かい、パシャととるだけだったと。やはり、次元が違うのだなあ。佐伯さんの書かれている通り、「世界を先取りしている」のだろう。だから、あんなに時間の軸が普通とは違うと感じるのか。


それにしてもあらためて、鎌倉はいい所だなあ。自然と人工物の割合がちょうど心地よい感じ。海も山もあるのもよい。風情がある。鶴岡八幡宮内にある近代美術館も、こじんまりとしつつも、よかった。一階の池の前の手すりが、映画「ノルウェーの森」で直子に再会するシーンによく似ていた。主人公が、手すりを指で弾きながら直子に近づいていくシーン。でもあれは、井の頭公園のはずだから、違うかな。あの映画は、なかなかすごかったなあ。



今日の言葉*

写真とは曖昧なもの

石元泰博さん
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by sachiolin | 2012-04-17 22:32 | 観□Foto | Trackback | Comments(0)

国分功一郎さんの「パリのデモから考える」を読んだ。
大変興味深かった。コメント欄を読むと、引用させて
いただいてもよさそうなので、そのまま引用。

memo
ただ歩く/ゴミをまき散らす/単なる群衆
ゴミの一つ一つが秩序のもろさの証拠
若者のコンサマトリー化/モラル・エコノミー 


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


私は学者の端くれであって社会運動家ではないし、研究しているのも哲学であって社会運動史ではないので、デモについて深く広がりのある話をすることはできない。ただ、全くの偶然から、デモが盛んな某国について少々知識を得ることがあったので、そこから考えたことをここに記しておきたいと思う。

 デモが盛んな某国とはフランスである。私は2000年から2005年までフランスのパリに留学していた。先に「全くの偶然から」と書いたが、その偶然とは私が住んでいた場所のことである。私はパリの東側にあるナシオン(Nation)という駅のすぐ近くに住んでいた。この駅がデモと何の関係があるかと言うと、この駅の広場がパリで行われるほぼ全てのデモの終着点だったのである。

 日曜日、パリだけではないがヨーロッパの街は静かである。やることがない。開いているのは教会と映画館ぐらいである。私もだいたい部屋にこもって本を読んだり、テレビを見るというのが常だった。そんな静かな日曜の午後、時折、「ゴー」っと言う音が迫ってくることがある。「なんだ?」と思って窓を開くと広場に厖大な数の人が集まっている。デモである。

 パリのデモはだいたいパリの北部を西から東へぐるっと回るように進み、ナシオンにやってくる。だから、ナシオンに住んでいた私は、あの五年間にパリで行われたデモはほぼすべて見ていると思う。

 さて、デモが来たなと思うと、だいたい見に行く(日曜日は暇なので)。先頭がナシオン広場に到着しても、後続部はまだまだずっと遠くだ。というわけで、多くの場合、私はデモの流れとは反対に先頭から後ろに向かって歩き、デモの様子を見て回っていた。

 パリのデモを見て最初驚いたのは、ほとんどの人が、ただ歩いているだけだということである。横断幕を持ってシュプレヒコールを挙げている熱心な人もたくさんいる。しかし、それは一部である。多くはお喋りをしながら歩いているだけ。しかもデモの日には屋台が出るので、ホットドッグやサンドイッチ、焼き鳥みたいなものなどを食べている人も多い。ゴミはそのまま路上にポイ捨て。

 デモが終わると広場で代表者みたいな人が何か演説することもある。それを聞いている人もいれば、聞いていない人もいる。みんななんとなくお喋りをして、ナシオン駅から地下鉄に乗って帰って行く。

 さてデモはこれで終わりだが、実は、私のような見物人にとってはまだまだ面白いことが続く。デモが終わったと思うと、デモ行進が行われた大通りの向こうから、何やら緑色の軍団が「グイーン」という音をたてながらこちらに向かってくるのだ。何だあれは!

 あれはパリの清掃人の方々、そして清掃車である。彼らは緑色のつなぎを着て、プラスチック製の、これまた緑色の繊維を束ねたホウキ(要するに日本の竹ぼうきをプラスチック製にしたもの)で路上のゴミを集めながらこちらに向かってくる。その後ろをゆっくりと進んでくるのが数台の緑色の清掃車。そのフロント部には二つの大きな回転式たわしのようなものがついていて、それが「グイーン」という音をたてながら、清掃人たちが集めたゴミを次々に吸い込んでいく。

 デモの最中、ゴミはポイ捨てなので、デモが行進した後の路上はまさしく革命の後のような趣になる(単にゴミが散らかっているだけだが)。しかし、彼らパリ清掃軍団がやってきて、あっという間に何事もなかったかのように路上はきれいになるのだ。パリ清掃軍団の清掃能力はすごい。彼らは毎夕、街を清掃している。そうして鍛え上げられた清掃能力がデモの後片付けを一瞬にして終えるのである。これはどこか感動的である。





 パリのデモがゴミをまき散らしながらズンズン歩くという事実は、デモの本質を考える上で大変重要であると思う。

 デモとはdemonstrationのことであり、これは何かを表明することを意味する。何を表明するのだろうか。もちろん、デモのテーマになっている何事か(戦争に反対している、原発に反対している…)を表明するのであるが、実はそれだけではない。

 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。

 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。

 デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。

 すこし小難しいことを書いているように思われるかもしれない。しかし、これは単なる私の実感として出てきたものだ。パリのあの群衆を見ていると、「こんなものがよくふだん統制されているな」とある種の感慨を覚えるのだ。「こんなもの」がふだんは学校に行ったり、会社に行ったりしている。それは一種の奇跡であって、奇跡が日常的に行われている。

 ここからデモの後のあのゴミについて考えることができる。なぜパリのデモはゴミをまき散らすのか。デモはほんのすこしだが秩序の外に触れている。だから、ゴミをまき散らしながら、日常の風景を書き換えていくのである。あのゴミの一つ一つが、秩序のもろさの証拠である。だからこそ、その証拠はすぐに跡形もなく片付けられるのだ。日常的に奇跡が起こっているという事実は知られてはならないのである。

 最近、日本では脱原発をテーマに掲げたデモが社会的関心を集めるようになってきた。自身も積極的にデモに参加している哲学者の柄谷行人が、久野収の言葉を引きながらデモについてこう言っている——民主主義は代表制(議会)だけでは機能しないのであって、デモのような直接行動がなければ死んでしまう(「反原発デモが日本を変える」。〈柄谷行人公式ウェブサイト〉より)。

 私は柄谷の意見に賛成である。だが、少し違和感もある。なぜならデモは、民主主義のために行われるわけではないからだ。民主主義という制度も含めた秩序の外にデモは触れてしまう。そうした外を見せつけてしまう。だからこそ体制にとって怖いのだ。民衆が路上に出ることで民主主義が実現されるというのは、むしろ体制寄りのイメージではないだろうか。この点は実はデモをどう組織していくかという実践的な問題に関わっているので、次にその点を考えよう。





 日本の脱原発デモについて、何度かこんな話を聞いた。デモに来ている人たちは原発のことを理解していない。彼らは何も分かっていない。お祭り騒ぎがしたいだけだ、と。

 先に紹介したパリでの経験を踏まえて、私はそういうことを言う人たちに真っ向から反対したい。

 デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。

 もちろんなんとなくと言っても、デモに集まる人間に何らの共通点もないわけではない。心から原発推進を信じている人間が脱原発デモに参加したりはしない。彼らは生理的な嫌悪感を持つはずである。逆に言えば、脱原発という主張に、なんとなくであれ「いいな」と思う人間が集まるのが脱原発デモだろう。

 デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。

 フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど…)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。ストライキというのは働かないことなのだから、家でビールでも飲みながらダラダラしているのがストライキというのがフランス人の発想である。私はこの発想が好きだ。

 デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。

 すると、ここでおなじみの問題に突き当たらざるを得ない。なぜ日本ではデモに人が集まらないのかという問題である。もちろん脱原発デモには多くの人が参加した。だが、日常的に大規模デモが行われているフランスと比べるとその違いは著しいように思われる。私はこの問いに最終的な答えを出すことはできない。だが、ヒントになる考えを一つ紹介したいと思う。





 格差社会・非正規雇用増加・世代間格差……現代日本の若者を取り巻く状況は非常に厳しいと言われている。それにもかかわらず、彼らの生活満足度や幸福度を調査すると、この四十年間でほぼ最高の数値が現れる。つまり今の若者たちは自分たちのことを「幸せだ」と感じている——このような驚きの事実を、豊富な文献と実に鋭い分析、そして小気味よい文体をもって論じたのが、昨年話題になった古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)である。

 古市はこうした若者の状態をコンサマトリーという言葉で形容した。コンサマトリーとは自己充足的という意味である。せっかくだからすこし学術的に説明しよう。コンサマトリーはタルコット・パーソンズという社会学者が用いた概念であり、インストゥルメンタルという言葉と対になっている。

 インストゥルメンタルはある物事をツールとして用いて、何らかの目的を目指す状態を指す。たとえばツイッターを情報交換や情報収集のツールとして用いるなら、その人はツイッターとインストゥルメンタルに関わっていることになる。

 それに対しコンサマトリーとは、ある物事それ自体を楽しむことを意味する。同じくツイッターの例でいけば、ツイッターで情報交換すること、投稿することそれ自体を楽しんでいるのなら、その人はコンサマトリーにツイッターと関わっていることになる。

 かつて若者は、輝かしい未来を目指して、今の苦しさに耐えることが求められた。これは「今」というものにインストゥルメンタルに関わることを意味するだろう。ならば古市が指摘するコンサマトリーな若者たちは、「今」を手段とみなさず、それを楽しんでいるのだと言うことができる。

 実は若者のコンサマトリー化はかなり以前から指摘されていたらしい(筑紫哲也は八〇年代初頭に当時の若者を指して「半径二メートルだけの視野」「身のまわり主義」などと言っていたそうである)。そして当然、それを指摘する人々はそのような若者のあり方を嘆いていた。

 それに対し古市は、こうしたコンサマトリーな生き方はそれはそれでいいではないかと言う。私もそう思う。人に、「今」を手段として生きることを強いるなどというのは恐ろしい傲慢である。実際、経済発展という目的に向かいながら、人が自分の生にインストルメンタルにしか関われないような社会を、日本はある時から反省してきたのではなかっただろうか。今の若者のコンサマトリーな生き方にはむしろ、見るべき点が多いとすら言うべきではないか。





 しかし、もちろんこれを言うだけでは不十分である。これでは単に現状肯定しているように受け止められてしまうだろう。古市は一部からそのような主張の持ち主と見なされているのだが、全くの誤解である。 実際に『絶望の国の幸福な若者たち』を読んでみると、もう一つ、別の大切なことが書いてあるのに人は気付くはずである。それがモラル・エコノミーという概念だ。

 これは民衆史の研究から出てきた概念である。それによれば民衆は「モラル・エコノミー」と呼ばれる独自のルールを持っている。民衆が立ち上がるのは、その独自のルールが侵された時が多いのだと言う。たとえば江戸時代の「打ち壊し」、大正期の「米騒動」がその典型例である。どちらも買い占めなどによる米価の値上げが彼らの独自のルールを侵したために起こった。

 世界のどこか遠くで起こった不幸な出来事について突然語られても、人は驚くか、その場で悲しんで終わりになってしまうかもしれない。しかし、自分たちの日常に関わるとなれば、コンサマトリーな若者でも動き出す可能性があると古市は言う。

 たとえば、多くのひとはいきなり「中国の工場における農民工搾取問題」と言われても何の関心ももたないだろう。けれど、iPhoneユーザーに対して「あなたが持っているiPhoneを製造した工場で労働者の連続自殺が問題になっている」という情報の提示の仕方だったらどうか。さらに、そのiPhoneユーザーの年齢にあわせて、「昨日死んだのは、あなたと同じ年齢の一九歳の若者でした」という情報が、写真付きで届けられたらどうか。「ちょっとくらいは別の国の、出会ったたこともない労働者のことを想像するかも知れない」。

 人々を立ち上がらせるのはモラル・エコノミーの侵害だけではないだろうが、しかし、これは大切な回路である。そしてもう一つ大切なのは、最後の最後にならなければ自分のモラル・エコノミーの侵害に気がつかないという事態も多く存在するということである。

 身近なところと遠いところ、少し難しく言えば、コンサマトリーな親密圏と問題が起きている公共圏とを繫ぐ何かが必要である。その何かは様々なものであり得る。原発事故であれだけの人が立ち上がったことを考えると、意外にちょっとした工夫で事態は大きく動くのではないかという気もしている。
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by sachiolin | 2012-04-17 15:38 | 引用:: | Trackback | Comments(0)

観■ 池田晶子さん



昔のニュースステーション懐かしい。。。
生死について自分について、議論。

2007年に亡くなられた池田晶子さん。
お話されているところは初めて拝見する。
お美しい方だ。内側からしみ出てくるほんとうの美しさ。

14歳からの哲学、読みなおそうかな。
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by sachiolin | 2012-04-08 02:27 | 観■TV | Trackback | Comments(0)

観■ 手塚治虫

赤塚不二夫さんが、手塚治虫さんに会った時

「漫画家になりたかったら、
一流の映画を観なさい、一流の本を読みなさい、
一流の音楽を聞きなさい、一流の芝居を観なさい。
漫画から漫画を勉強するな。
一流のものに触れて、それらを自分の身につけて
そこから自分の世界を作っていけ」

と言われ、それをみんなで守ったというエピソード。


納得するし、じーんとする。


その感動の続きで、漫画の神様の言葉を収集。


●「ダメな子」とか「わるい子」なんて子どもは、 ひとりだっていないのです。
もし、そんなレッテルのついた 子どもがいるとしたら それはもう、
その子たちを そんなふうに見ることしかできない 大人たちの精神が貧しい。

●現在の日本の教育ほど、 うわべは百花繚乱の様相を呈しながら、
実は根なし草の教育はない。

●子供は、大人の真剣なメッセージを待っているし、
また十分に受け止める感受性もあります。

●時代は移り変わっても、 子供たちの本質は変わらない。

●幼い子供が怒られるようなことをしでかした場合、
それが不器用なための過ちなのか、 未知への探求欲のためなのか、
破壊本能のためなのか、 完全な悪意によるものなのか、 大人は知る必要がある

●自然や人間性を置き忘れて、 ひたすら進歩のみを目指して突っ走る
科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、 差別を生み、
人間や生命あるものを無残に傷つけていくか。

●プロならば与えられたページ数で、 描きたいテーマを描ききらなければならない。
ページ数が足りなくなるというのは、 技術が未熟なんです

●わたしの漫画は絵ではない、 記号の集合体である。

●プロというのは、何も無いところから出さなきゃダメだ。
引き出しを開けたら何もなくても、締切りは迫っている。
そこで、無から有を生ずるのがプロですよ。

●何より重要なのは、ハングリーな気持ち。
常に何かに飢えている緊張感が、
ぼくの健康を支えている。
もうこれで十分満足、と落ち着いた途端に
スタミナが切れて、ダウンしてしまう気がする。

●変形・省略・誇張」という3つが、
落書きの要素であると同時に、 マンガの要素である

●井の中の蛙を決め込んでいるのは、 敗北だと思う

●オヤジの役目というのは、 その生きざまを子供に見せてやることだと思う。
子供がオヤジの行動に感動すれば 尊敬するだろうし、
尊敬しないまでも条件反射的に、 その行動をなぞっていくものだろうと思う。

●子供は、その時点時点で常に現代人であり、
また、未来人でもある。



映像が結構残っているのだ!



なんか…よい。
やあ!!






メガネの奥のキラりとした鋭く深くやさしい眼差しが、何とも印象的。
身体的にもがっしりしているし、心も体も強靭な方だなあ。
ほんものを追求し、見つめ続けた、凄まじさを感じる。
それにしても、漫画を描くというのは、大変なことだ。脱帽。

テレビカメラが入っているけどいつもの感じと同じなのかなー。
こんなに音楽を流したり、テレビをつけながら、混沌とした中で
作品を作り上げていったのは意外。ノイズの渦のなか。非常に興味深い。

天才だからなせる技なのだろうけど。



























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by sachiolin | 2012-04-08 02:21 | 観■TV | Trackback | Comments(0)