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わたしの心の風景メモ。 


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聴● zaz



ステキスギル☆
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by sachiolin | 2012-02-24 16:22 | 聴● | Trackback | Comments(0)

道≡ 3月のライオン

c0110074_15441181.jpg

無理だよ
他人が説得しなけりゃ続かないようならダメなんだ
自分で自分を説得しながら進んで行ける人間でなければダメなんだ
プロになるのがゴールなんじゃない
なってからの方が気が遠くなる程長いんだ
進めば進む程道はけわしく
まわりに人はいなくなる
自分で自分を〈調整・修理(メンテナンス)〉できる人間しか
どのみち先へは進めなくなるんだよ


(3月のライオン)
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by sachiolin | 2012-02-20 15:44 | 道∺ | Trackback | Comments(0)
ナルホド―と、文章読みながら久しぶりに唸った。

memo メディア 媒体 窓ガラス 歪み 曇り あちらとこちら ゆらぎ 湯けむり つなぐ コミットメント さわること ふれること 近づくこと 分かつこと とけること 動 アタッチメント 離れること 観察すること 置くこと 考えること 静   生 ライヴ 生身 生き 息 域 粋 



:::::::::

メディアはいわば私たちの社会の「自己意識」であり、「私小説」である。
そこで語られる言葉が深く、厚みがあり、手触りが複雑で、響きのよいものならば、また、できごとの意味や価値を考量するときの判断基準がひろびろとして風通しがよく、多様な解釈に開かれたものであるならば、私たちの知性は賦活され、感情は豊かになるだろう。だが、いまマスメディアから、ネットメディアに至るまで、メディアの繰り出す語彙は貧しく、提示される分析は単純で浅く、支配的な感情は「敵」に対する怒りと痙攣的な笑いと定型的な哀しみの三種類(あるいはその混淆態)に限定されている。
メディアが社会そのものの「自己意識」や「私小説」であるなら、それが単純なものであってよいはずがない。「私は・・・な人間である。世界は・・・のように成り立ってる(以上、終わり)」というような単純で一意的な理解の上に生身の人間は生きられない。そのような単純なスキームを現実にあてはめた人は、死活的に重要な情報-想定外で、ラディカルな社会構造の変化についての情報-をシステマティックに見落とすことになるからだ。

生き延びるためには複雑な生体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生をはかろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。社会制度もその点では生物と変わらない。変化に応じられるためには複雑な構成を保っていなければならない。
メディアの成熟度にも私は人間と同じ基準をあてはめて考えている。その基準に照らすならば、日本のメディアの成熟度は低い。
全国紙は「立派なこと」「政治的に正しいこと」「誰からも文句をつけられそうもないこと」だけを選択的に報道し、テレビと週刊誌は「どうでもいいこと」「言わない方がいいこと」「人を怒らせること」だけを選択的に報道している。メディアの仕事が「分業」されているのだ。それがメディアの劣化を招いているのだが、そのことにメディアの送り手たちは気づいていない。
ジキル博士とハイド氏の没落の理由は、知性と獣性、欲望抑制と解放をひとりの人間のうちに同居させるという困難な人間的課題を忌避して、知性と獣性に人格分裂することで内的葛藤を解決しようとしたことにある。彼が罰を受けるのは、両立しがたいものを両立させようという人間的義務を拒んだからである。だが、その困難な義務を引き受けることによってしか人間は人間的になることはできない。面倒な仕事だ。だが、その面倒な仕事を忌避したものは「人格解離」という病態に誘い込まれる。私たちの国のメディアで起きているのは、まさにそれである。メディアが人格解離しているのである。解離したそれぞれの人格は純化し、奇形化し、自然界ではありえないような異様な形状と不必要な機能を備得始めている。

メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを(多少とでも)明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について(多少とでも)倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。「デタッチメント」的報道はストレートな事実しか報道しない。その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、どういう意味を持つものなのか、私たちはその出来事をどう解釈すべきなのかについて、何の手がかりも提供しない。そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。
「コミットメント」的報道は逆にその出来事がある具体的な個人にとってどういう意味を持つのかしか語らない。個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が他ならぬこの人において、なぜどのように生じたのかを「非人情」な視点から分析することを自制する。そこに「客観的冷静さ」が混じり込むことを嫌うからである。
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。
私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。

(内田樹の研究室

:::::::::::::::::
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by sachiolin | 2012-02-16 02:32 | 引用:: | Trackback | Comments(0)
読むことと、話すことを、考えている。

昔、そのまた昔、ことばは、
純粋に、声であり、生ものだった。
人は文字を手にしたことで、ことばをいわば、
冷凍保存することに成功した。
どれだけ昔のことばでも、読むことで、
ことばは解凍される。解凍され、食べられる。 

人間は、食べものだけでなくて、ことばも食べている。
「読む」ということを発明したのは、やはりすごいことなのではないか。

楽譜も、「読む」わけだけれど、音が体に入る、
という感覚を掴むには、音をきちんと噛んで
食べないといけない。音を体に入れないといけない。

音をきちんと噛まないで、音がきちんと体に入っていないまま、
人前で弾くと、どうしても、上滑りの、中身のない演奏になってしまう。 
だからこそ、普段の練習の積み重ねが大切で、一夜漬けの練習は
音楽の場合は、まるで意味がなくて、前日はよく寝て、イメージトレーニング
の方が、大切だったりする。カレーや、煮物や、漬物のように、
自分のなかに音がじんわり沁みていく、きちんと入り込んだ
という感覚がないと、浮ついて、カップラーメンのような音になってしまう。


音にも温度がある。音に熱を加える。音を調理する。
楽譜はレシピ。演奏家は料理人。聴衆はそれを味わう人。

人が生きているということは、何かに熱を加えるということなのかも。

いつも温度が高ければよいということはない。
作品によっては、冷たいまま、お出しした方が
よい音もある。それは、沢山のレシピを読んで、
作ってみた経験が、ものをいう。

歴史と同じく、「その当時の当たり前のことは書いていない」
ということが、往々にしてあるということを、念頭に置く必要がある。

音はもともと語りだったわけだから、
その語り方、発音、つまりアーティキュレーションにも
とても気を使う。楽譜の書き方も、時代によっても、
作曲者によっても、微妙に変化し続けている。

演奏家は、紙の上の音を、どのように音として実現させるか、
ということが、本質なので、楽譜をじっと読むことそのものよりも、
とにかく色々音に出してみる、ということが、大切な作業だが、
楽譜を、本のように、黙読することは、実際には、とても大切だ。

音楽家のなかで、
楽譜を誰よりも黙読しているのは、
おそらく、指揮者だろう。

自分では音を一音も出さない音楽家、というのは、
考えてみると何だか不思議で滑稽でもある。

オーケストラという、大きな大きな楽器を前に、
時に踊るように、時に瞑想するように、
体を動かし続けるその人は、オーケストラの
司令塔であり、脳でもあるだろう。
それには、まず楽譜を深く深く読み込む必要がある。
自分では音を出さない分、常に沢山の音を一度に聞いて、
それを、操り、波をつくり、渦をつくり、熱を加えて、運転する。

一方、演奏家は、料理人でもあり、俳優とも似ている。
指揮者と同様、台本を読み込む作業の末に、
実際に、ことばを、音にして、熱を加え、感情を加える。
読書から朗読へ。書きことばから話しことばへ。
解凍して、熱を加えて、生の声にする。


書きことばを黙読する感じ。
黙々と淡々と読む感じ。
その感じと、話しことばへと変換していく、
その「あわい」を、はっきりさせず、
もう少し、とけさせてみようと、最近試みている。


読むことと、話すことを、考えている。


沈黙と無音には違いがある。
沈黙にも音がある。
沈黙に耳をすます。



今日の言葉*

音は始めから時間のなかに存在している。
視覚は時間を疎外あるいは客観視し、
聴覚は時間を前提あるいは内在化する、といってもよいであろう

ヒトの脳は視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを
いわば「無理」につないだのではないか。
その「無理」が意識的な考察では年中顔を出す。
我々は聴覚言語と視覚言語の統一を当然だと考えている。
当然だと思っているからこそそこに
心身論、構造と機能、粒子と波動といった逆理が顔を出す。

養老孟司さん(「唯脳論」)
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by sachiolin | 2012-02-16 02:24 | 考〇 | Trackback | Comments(0)

聴● 春の気配




本当に素敵な歌声。
この歌、特別大好き。



畠山美由紀さんのライヴ、
ぜひいつか行きたいな。

生の歌声を聞いてみたいと、
こんなに思った人は初めてかもしれない。

サラサラした美しい布が何枚も何枚も
重なって、自分がやさしく包まれていく
ような気持ちになる。



春の気配、少しずつしてきたかな。
明日からは、また寒くなるみたいだけど。



今日の言葉*

「秘すれば花なり」

(世阿弥)
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by sachiolin | 2012-02-16 01:17 | 聴● | Trackback | Comments(0)

考○ 盲点の窓

ーーー具体的にどんな自分磨きをなさっているのですか?

ただキレイになりたいんだったら他人に見られることを意識するのが一番かな?
でも見られてばかりで「見る」ことを忘れると中身が空っぽになるんで、
私は今「見る側」に立とうとしてます。名人(見られる側)になってからの十数年、
どんどん自分が見えなくなっていってた。全然自分のこと理解できてなかったし
周りの人たちのことも「知ろう」としてなかった。苦しい、さびしい生き方をしてました。
まだ若いうちに気付けてよかったです。みんなに感謝(*´(エ)`)

(宇多田ヒカルさん)


これを読んで、はたと気付いた。

私は、見る側に立ちすぎで、自分が見えてないかもしれない。
見ている自分を見ているけど、見られる自分を見ていない。


だからか~!
うまく言葉で言えないけれど、
何だか妙に腑に落ちていく感覚が。

自分を知るってむずかしい。
自分なんて一番分からない生きものだもの。


見られる自分を見る。


人間における鏡とか、
女における化粧って奥が深い。
男における化粧はもっと深い…


見られる自分を、きちんと見ていないというのは、
とてもよくない気がしてきた。フツフツと。
よくないし、勿体ない、それは。

人に意見を求めてこなかったわけではない。
今まで、いろいろなタイミングで、
いろいろな人に、肯定もされたし、否定もされた。

でも、私は基本的に何かを「見る」ということが、
好きだし、「見る」ということを、積極的にしてきた。

見ることと見られること、の二つが
天秤にかかっていたら、多分、圧倒的に、
「見ること」の方にひたすら重りを乗せてきたと思う。


だからか、他人のことを紹介するのはすごく得意で、
自己紹介は、昔からものすごく苦手である。


ジョハリの窓を思い出す。



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4つの窓の一つ、盲点の窓(blind self)が
きっとあまり開かれてないんだなあ。

この窓は、唯一他者によって開かれる窓。
他者にしか開かれない、というべきか。
自分には決して開けない、というべきか。


でも考えてみると、この窓は、
盲点、死角、であるだけに、恐ろしくもある。
だから、無意識のうちに避けていたのかもしれない。
あと、小さいときに、きちんと誰かに見られていた
幸せな子どもだったのかもしれないなとも思う。
さっきの天秤の話でいうところの
「見られること」にきちんと重さがかかっていたから、
「見ること」に重りを重ねていけたのだろうとも思う。

赤ちゃんを見ていても思うけれど、
他人にきちんと見られることによって、
不確かな自分という存在を確認している。

ある意味、生まれたての赤ちゃんは、
盲点の窓が全開なのだろう。そこから、少しずつ
自分を意識してきて、開放の窓が開いていき、
そのうち自分だけの秘密を持って、秘密の窓ができていく。

赤ちゃんは、可能性の塊だから、
きっと未知の窓もとても広く大きい。


成長し、大人になるプロセスで、
家庭や学校、そして社会のなかで、
公開された自己=開放の窓が広がっていく。
それと同時に、秘密の窓も、広がっていく。
多分、今の日本は、この窓がとても大きい。

赤ちゃんのころ、全開だった盲点の窓は、
開くのがこわくなり、無意識で閉じていく。

閉じていくというより、実は
常に開かれているのだけど。

自分だけが気付いていないし、わたしは、
自分の窓なのに自分から開こうとしていなかった。


たとえば、宇多田ヒカルさんのように、
早くに「有名」になってしまった人は、
早くに公開の窓があまりに大きくなって、
そして又、盲点の窓も大きくなっていったのかもしれない。

それだけ、盲点の窓は、
可能性を秘めているし、
危険でもあるような気がする。

有名になるって大変であるからして、
秘密の窓も、大切にしなくてはいけない。

色んな有名人がいるけれど、
分かっている有名人は、きちんとそこら辺が、
分かっているな―とつくづく感じる。


わたしは、有名にはなりたくないけれども、
これからは4つの窓のどれもを大切にして、
4つの窓をバランスよく開いていき、磨いていきたい。




今日の言葉*

アートは社会にとって必要ではありません、余計なものなんです。
だから、社会に必要とされるアーティストになろうなんて愚の骨頂です。
アーティストははぐれ者じゃなきゃいけないし、自分がなりたいからなるのであって、
社会がどう必要としているかなんてまったく関係ない。

坂本龍一さん
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by sachiolin | 2012-02-15 04:13 | 考〇 | Trackback | Comments(0)

ファインマンは「意味をつくりだそうとすること」が「考えること」であり、
そのことを伝えようとすることが「教育」や「学習」であると確信する。



創作のまっただなかで、意味を求めてしまってはいけないと思うけれど、
意味を創作しようとすることが、考えることなのか  


考えて考えて考え抜いて、そういう耕された土壌があって、
その上で、今度は全く考えないで創作をするのかな   

演奏するときも、考えてはいけないからなー 
考えてしまったときの演奏は、ひたすらつまらない

意味をつけようとする芸術は最悪で、
意味は本当はあとから生まれてくる。
音が生まれたあと、弾き終わったあと。
音が生まれたあと、聞き終わったあと。
弾いた人の中にも、受けとった人の中にも。
あとから、時間をかけて意味が滲みでてくる。

だから、余韻、というのはすごく大切だ。
余韻を味わうこと。余韻を楽しむこと。



意味をつくりだそうとした土壌の上で、
無意味の空を自由に飛ぶ  

大地と空と、どちらもが必要なのかもしれない   

あくまで意味を「つくりだそうとした」という痕跡が大切なのであって、
意味を「つくりあげて」はいけないのだと思う。  

そうすると、きっと永遠に飛べなくなる  

いつもどこかに空を抱えていないと
いつもどこかで空を見ていないと



今日の言葉*

平均化の果てに帰趨するのではなく、
混沌の淵から特異性を屹立させていくようなことを
クリエーションと呼んできたように思う。

原研哉さん
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by sachiolin | 2012-02-15 03:05 | 考〇 | Trackback | Comments(0)
既知と未知。
基地と道。

あるようでなく、ないようである、
雲のような基地から、
あるといえばあり、ないといえばない、
植物のような無数の道が生えている。

生きているって、とても不安定で、
カラフルで、フレキシブルで、ワンダフル。


子どものころの記憶って断片的に、
ものすごくリアルである。不思議なほどに。 

友だちと、秘密基地とか作っていたな。

既知はやっぱり基地かもしれない。
未知はやっぱり道かもしれない。


リアルとバーチャルのぎりぎりの塀の上を歩いているような物語、
あるようでない、ないようである世界やものたちは、
人の心をとらえるように思う。つまり、だから、たとえば、
虫が映画を作ったとして、その分からなさについて考える。

どのようにことばがうまれ、
どのように文脈がうまれてきたか考える。

既知と未知をつないでいるもの。

ファンタジーをファンタジーたらしめているものは、イメージかな。
そして、イメージだけでは、物語にはならない。 

いつだったか、言われたことをふと思い出す。


「ファンタジーとイメージを結婚させることだよ」  


仮定形というシステムは、
人を惑わすし、人を生き返させる。


手に余りあるほどのわからなさを、
両手にいっぱい抱えて、
口にいっぱい放り込んで、
お腹をいっぱい満たして、
わからないまま、生きていく。

ずっと手をつないでいること。


なにかひとつ分かったら、そこから、
10本の新たな分からなさが、道を広げる。

だからきっと、永遠に、全てを分かることはない。


だからこそ、
分かろうとすること
分からなさを抱えていることが、
大切なんだと、目をキョロキョロさせながら、
星を見たり、月を見たり、花を見たりする。
人と話したり、黙りこんだり、笑ったり、泣いたりする。


いつも、空は、私たちに向かって開いてくれている。



生きているって、
カラフルで、フレキシブルで、ワンダフル。



今日の言葉*


問題は決して平板ではない。
“見せる”と同時に“見せない”という矛盾が、
一つの表情の中に内包され、充実していなければならないのだ

(岡本太郎)
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by sachiolin | 2012-02-04 05:21 | 考〇 | Trackback | Comments(0)