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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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<   2012年 01月 ( 7 )   > この月の画像一覧

思○譲れないもの

自分が何に対して誠実で、切実で、
自分にとって何が譲れないのかということ。

それは、ぎりぎりの局面になってみて、初めて分かる。

自分を、時に閉じて研磨し、
時に世界に対して開き、自分を壊し、
行ったり来たりしながら、
その譲れないことをつかむために、
生きてるのかもしれないなあ。 

その譲れないものを、最近つかんだ、
自分からつかみにいくことができた感覚があった。

どんなことが起きても、地球がひっくりかえっても、
自分の手元に残っているものが、あることを知った。

自分のなかの秘密の場所。秘密の箱。
それがなければ、魂が死んでしまうような場所がある。
それを守れるのも、それに気付けるのも自分だけだ。
そのことに気付けて大分、楽になった。
それに気付けないと人生は虚しいし、辛いものだ。


世の中には、たくさんのほんとうがある。
そして、それ以上にたくさんのうそがある。

表側でうそをつけば、裏側でほんとうに気付く。
裏側でうそをついても、表側でほんとうを口にする。
ほんとうを貫けば、うそに囲まれもする。

ほんとうだけでは、きっと生き切れない。
うそだけでも、きっと生き切れない。
それだけ、人間は弱いし、そして強い。
それだけ、人生は儚いし、そして豊かだ。

人は、心のどこかで、ほんとうに気付いている分、
人は、心のどこかで、うそが欲しいのだと思う。
だからこそ、小説を読むのだし、映画を見るのだし、
恋をするのだし、料理をするのだし、夢を見るのだろう。


「いつもほんとうのことだけをいう人を信用するな」
とは、カネッティの言葉だったかしら。


この世がほんとうだけだったら、
どれだけ渇いてしまうのだろう。

だまされるということは、本来は、とっても素敵なことだ。
信じなければ、だまされない。信じたからこそ、だまされる。
何かにだまされたということは、何かを信じたことの証なのだ。

それが、たとえもし、うそだったとしても、
その瞬間、その人は、その人のなかのほんとうを、
新しく発見していたに違いない。

そのことは、何て素敵なことなのだろう。
そのことは、その人の秘密の箱にきちんと
大切に大切にしまっておかなくてはならない。
そして、大切に大切に育てなくてはならない。

たくさんほんとうとうそをくぐり抜けて、
手元に残った自分のなかのほんとうを。
たくさんのほんとうとうそを失って、
手元に残った自分のなかの温かさを。






ラヴェルの自作自演の録音。
何だか魂をもっていかれてしまうような気がして、
いつ聞いても、美しさだけでなく怖ささえ感じる。
ラヴェルの魂がぎりぎりのところで燃えている。
孤独と向き合って、決して譲れないものが、
守られているラヴェルの秘密の部屋を垣間見る。





今日の言葉*

「樹というのは、これもそれが私に及ぼす効果の総体なのです。
私が観ている樹を素描することが問題なのではありません。
単に樹としてだけではなく、ほかのあらゆる種類の感情と関連して
私の精神に働きかけてくる対象を私は目の前にしているわけです。

樹を正確に模写するとか、慣用語法で葉を一枚一枚素描したりすることで
私は自分の感動を解放するわけにはゆかないでしょう……
むしろ、自分を樹と一体化させてはじめてできるのです。
私は樹と似ている物を創造せねばならない。」

(アンリ・マティス)
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by sachiolin | 2012-01-31 00:26 | 思〇 | Trackback | Comments(0)
2011年後半は、本当に怒涛のごとくだったなあ。
今日の言葉を、整理してみようかな。



「語り得るものについては明瞭に語られなければならない。 
語り得ぬものについては沈黙せねばならない」 

(ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン )



「豊かな心とは、無い時は無いように生きることを楽しみ、
有る時は有るように楽しんで、それにこだわらず、
いつも生々溌剌とした気分で一日を暮らせることだ。
無くて困り、有って困って、持たない為に陰気になり、
持って、その番をして気が苛立つ人は、どうしても豊かとはいえない。 」

(野口晴哉)



「人を信じよ、しかしその百倍も自分を信じよ」

(手塚治虫)


「観念の世界に浸ることなく、
とにかく、現場をみなさい。現場で体験しなさい。」

(矢作先生)



「私たちの本当の知恵は、自分の目で見ること、
ーー本を読むことも、そこに入れましょうーー、
自分の耳で聞くことをよく受けとめ、
自分のものとして活用することができるのになって、
 生まれるのです。」

「他の人のいうことによく耳をすまし、
注意深くうけとめることができるようになれば、
自分が本当にいわなければならないことを
確実にまとめることもできます。」

(大江健三郎「『新しい人』の方へ」)



創造に没入すれば「今、この瞬間」以外の
時間の制約からは完全に自由でなければならないと思う。
「この瞬間」に没入すると、
出し惜みなんてケチな気持は消えている。
明日をわずらうのは創造に対してケチになっている証拠だ。
アートは大判振る舞いでなきゃ何点描いてもケチアートの山を
作るだけで大判振る舞いフェチアートでなきゃならない。
これがぼくの定理だ。

(横尾忠則さん)




「友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、
それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである。」

(Elbert Harvard)



「藝術は深さとか強さとかを取るべきではない、『諦』である。
花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事。(高野野十郎) 
これまで9年近く、風の旅人を続けてきて、まだこの先にやることがあるとすれば、
そして、震災後の日本においては、この、野十郎の『諦』しかないと思っている。
『諦』は、『諦観』の諦。全てを見て、その上でなお自分の中に残る執心を
断って至る感覚。大自然の力の前に芥子粒のように吹き飛ばされる
人間の営みを目のあたりにしても、人間は懲りずに、というかすぐに忘れて、
以前と同じことを始める。回路が変わらないからだ。
諦観というのは、回路が変わること。
本物の表現は回路を変える力がある。一斉に大勢の向きを
変えさせるのは、回路を変えているのではなく睡眠状態にしているだけ。
だから、後になって、みんな、あの時は騙されていたという言い方をする。
回路の変化は、人から人へ少しずつ行われる。それは覚醒を伴ったものだから、
騙されたとはならない。」

(佐伯剛さん)


「死んだからだをていねいに扱うとき、
わしらの目それぞれが、死んだそいつの目になるんだ」

「見えない世界に、まっすぐ向けられた目だ。
生きたわしらに、その場所はけっして見えねえ。
けど、死んだ目を通して、そいつを感じとることならできる
そこがあると信じられるから、わしら猟師は、
鳥やけものに鉄砲を向けることができるんだろう。」

(いしいしんじ「ポーの話」)


「真の自己とは、自身の外にあるものです。
私がこの箇所(鏡の中の鏡第2話)で言っているのは、
自身に課せられた課題をつかまえよ、ということなのです。
自分の内部に探すのではなくて、課題は外なる生がもたらしてくれる。
外からこちらに近づいてくる。これが本当に大事なことです」

(ミヒャエル・エンデ)




「すべての見えるものは 見えないものにさわっている
聞こえるものは 聞こえないものにさわっている
感じられるものは 感じられないものにさわっている
おそらく考えられるものは 考えられないものにさわっているだろう」

(ノヴァーリス)



「上に行くべきは上に行き、
下に行くべきは下に行く。
上に行くべきときには、
いちばん高い塔をみつけて
そのてっぺんに登ればよろしい。
下に行くべきときには、
いちばん深い井戸をみつけて
その底に下りればよろしい。
1流れのないときには、
じっとしておればよろしい。
流れにさからえばすべては涸れる。
すべてが涸れればこの世は闇だ。
<我は彼 彼は我なり 春の宵>
我捨てるときに我はある

(村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」)


「僕は感情の血を流すように生れついている、
決して肉体の血は流さないだろう、と清顕は
軽い不安の入りまじった傲慢な心で考えた。」

(三島由紀夫・春の雪)



日はうららかに射して、彼らの刈り上げた若々しい項に落ちた。
静かな、何事もない、富み栄えた日曜日であった。
それというのに、清顕は依然、水を充たした革袋のような
この世界の底に小さな穴があいていて、そこから一滴一滴
「時」のしたたり落ちてゆく音を聴くように思った

(三島由紀夫「春の雪」)



「見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい。
You should be the change that you want to see in the world. 」

(ガンジー)

「ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない」

「さようなら」(谷川俊太郎)


「人類史とは人間が無から有をつくれるかどうかを
神が試してきた歴史です。人類の傲慢であったとしても、
そこまでいかないと人類は人類にならないんじゃないですか。
思考は存在から育てられた。しかし思考が未知の新存在をつくるべきです。」

(埴谷雄高)


「教えるとは ともに希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」

(ルイ・アラゴン)


美は、必ずしも客観的ではない。
美しさの奥行きをつくるのは、見るもの自身の魂の陰影である。

日野啓三さん



「言葉の世界は有限だけれど、絵の世界は無限だ。
チベットの高僧は言葉を信じないという。
チベットの言葉はマントラで、マントラは砂絵だ。
そんな砂絵も風が吹けば消えて失くなる。
そんなたわいもない言葉を人はなぜか信じたがる。
その点、絵は信じるものではない。信じないから裏切られない。

言葉がなければウソはつけない。言葉があるからウソをつく。
絵には言葉がないのは幸いだ」

(横尾忠則)



「自信というものは、いわば雪の様に音もなく、
幾時(いつ)の間にか積った様なものでなければ駄目だ。
そういう自信は、昔から言う様に、お臍の辺りに出来る、
頭には出来ない。頭は、いつも疑っている方がよい。
難しい事だが、そういうのが一番健康で望ましい状態なのである。」

(小林秀雄  38歳)

「A person is a success if they get up in the morning
and gets to bed at night and in between does
what he wants to do. 」

(Bob Dylan )



「ある時は泣く、又ある時は笑う。
同じ花が咲き散ることにでも、楽しくも悲しくもなる。
人間のこの自由な心を知ったら、何もこだわることはない。
泣きたければ泣く、笑いたければ笑うだけである。」

(野口晴哉)



「見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい。
You should be the change that you want to see in the world. 」

(ガンジー)


「闇は光の母」


闇がなければ光はなかった
闇は光の母
光がなければ眼はなかった
眼は光の子ども
眼に見えるものが隠している
眼に見えぬもの
人間は母の胎内の闇から生まれ
ふるさとの闇へと帰ってゆく
つかの間の光によって
世界の限りない美しさを知り
こころとからだにひそむ宇宙を
眼が休む夜に夢見る
いつ始まったのか私たちは
誰が始めたのかすべてを
その謎に迫ろうとして眼は
見えぬものを見るすべてを探る
ダークマター
眼に見えず耳に聞こえず
しかもずっしりと伝わってくる
重々しい気配のようなもの
そこから今もなお
生まれ続けているものがある
闇は無ではない
闇は私たちを愛している
光を孕み光を育む闇の
その愛を恐れてはならない

(谷川俊太郎)


自分が特別だなんて決して思ってはいけない。
しかし人はだれも自分が特別でないと思うべきではない。
客観性とは、こんなにもややこしいものなので、
手に入れたり見失ったりをくりかえして生きていくのですね

(吉本ばなな「パイナツプリン」)



「英語やフランス語の concept(思考、概念)という言葉は、
conception(妊娠)の語と同語源である! ゲーテが
『永遠に女性的なるもの』を讃えたとき、賛美の対象は
具体的なひとりの女性をさしているのではなかった。
 受けるものは、与えるものを必要とする。
 与えるものは、受けるものを必要とする。
 受けるものなしに与えるものは存在意義を失う。
 与える力は、受ける力を持つ。与えてから、与えたものを
 受けた力が新しい存在を創造し生み出すのを待つ。
 おしべ。
 雄。
 男性。
かくて相互作用が成り立つ。相互作用が『存在』をつくり出す。
相互作用は、すなわち、生命の緊張である」

(犬養道子「男対女」)


「大切なものは全て余白にある」
(ヴィム・ヴェンダース)


「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、
そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくと
いうことに気づかねばならない」

(ユージン・スミス)


思想は「使う」べきものである。思想は「論ずる」ためだけにあるのではない。思想は、西洋かぶれのプロの思想家の独占物ではないのであって、アマチュアたる土民の誰かの自由な使用にゆだねるべきである。プロにまかせてはおけない。アマチュア思想道を確立するべきである。

(梅棹忠夫)



努力は馬鹿に与えた夢 
学問は貧乏人の暇つぶし 
未来は修正できると思っている過去

(立川談志)


「集中」と「傾注」は違うということを多田先生に繰り返し教わりました。「観察するけれど、囚われない」という心的状態を達成する一つの方便が「今起きていることを『以前に経験したことを細部までありありと回想されていること』と思い込むこと」ではないか、と。

(内田樹)



この時に当って、もう一度人類文明を根本的に反省しなければならないが、
それには、もう一度、人類が長い間続けていた狩猟採集時代の世界観を想起する必要がある。

 この人間を動物と一体として見る世界観と共に、私がアイヌや沖縄の宗教において、特に感激するのは、輪廻の思想というより、永劫の回帰といってもよい考え方が存在していることである。

 それはおそらく天体の運動についての人類の疑問から生じたにちがいない。太陽は朝方に東から上って夕方に西に沈む。おいて次の日にまた東から上る。そいて朝と共にわれわれは起き、そして夜に寝る。それを、古代人は太陽の生と死と考えたのはごく自然のことであろう

太陽は、毎日毎日生まれ死し、永遠に生と死をくりかえす。おしておれと共にわれらも起きてそして寝る。そして眠りは生の中へ侵入してきた死と考えられる。月もまた同じこと。一月一月生死を繰り返し、女はそれによって月毎に血を流し、それが原始人にとって大きな不思議であった出産とつながる。また年も太陽の生死であろう。夏は太陽の力が強くなり、冬は弱くなる。おいて冬と共に木は歯をお歳、昆虫や鳥は姿を消す。

 このような永遠の生死の繰り返しが世界の姿であるとすれば、死んだ魂は人が死ぬやこの屍から離れ、天に帰り、そしてまたこの世にあらわれるのではないであろうか。天は神のいますところ。われわれの魂はそこからきてそこへ帰るのである。

(梅原猛)


「自分を解放したいなどと言うな。それは精神の未成年が言う言葉である。
それは芸術ではない。常に抑制する。抑制された思考を、
丁寧に人々に伝える。自分の隅々にある小さな思考の粒子をちゃんと
丁寧に拾い集める。解放させるな。自由を求めるな。
自由度を磨き、徹底して抑制する。それが芸術行為である」

(坂口恭平さん)




「世界は見つけられるのを待っている」 

(よつばと!11巻)



「わたくしは綺麗な女性より、綺麗な機関車を好みます。
実は、わたくしのたったひとりの情婦は音楽なのであります」

ラヴェル



「われわれは最後の最後まで自分を相手に喜劇を演じる役者である」

(ハイネ)



「笑い。これはつよい。文化の果ての、花火である。理知も、思索も、数学も、一切の教養の極致は、所詮、抱腹絶倒の大笑いに終わる、としたなら、ああ、教養はーなんて、やっぱりそれに、こだわっているのだから、大笑いである。もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。」

(太宰治)



アイヌにとって多くの動物は、本来、人間と同じものなのである。
それは、魂の故郷である天においては、人間と同じような形をし、
人間と同じような社会生活を送っている。それがたまたま
人間の世界にマラプトすなわち客人となって出現した時、
それはハヨクべすなわち偽装をしているのである。
熊は熊の偽装をしているにすぎない。
何のために。人間にミヤンゲを齎すために。
ミヤンゲとはアイヌ語で「ミ」すなわち身、
「ヤンゲ」あげるということであり、日本語の「みやげ」は
そこから出ているのであろうが、その真の意味が分からなくなったので
土産という字があてはめられたのであろう」

(梅原猛)



「多くの人に一度に会うことではじめて掴める感覚というのは確かにある。
しかし結果として感受性が分厚く鈍感になってはまずい。
一人で、鉛筆を削るように、しんしんと考えることが必要だ。」

(原研哉さん)


「いつもほんとうのことを口にする人間は、信用するな」

(カネッティ)
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by sachiolin | 2012-01-24 01:56 | 今日の言葉+Wörter | Trackback | Comments(0)

道≒原研哉さん

やりたいことがたくさんある時は、全てうまくいくとは限らない。
しかし、何かをやろうとすればその痕跡は残る。だから、
巧くやろうとするよりも、筋道をきちんとおさえておくことが大事。
ついにはやるのだとすれば。

(原研哉さん)
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by sachiolin | 2012-01-24 01:37 | 道∺ | Trackback | Comments(0)

引用:: 地下2階

人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。
一階はは人がみんなで集まってご飯食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。
二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本読んだり、一人で音楽聴いたりする。
そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。
日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは非常に特殊な扉があって分かりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。
ただ何かの拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。
それは前近代の人々がフィジカルに味わっていた暗闇 --電気がなかったですからね--というものと呼応する暗闇だと僕は思っています。
その中に入っていって、暗闇の中を巡って、普通の家の中では見られないものをひとは体験するんです。
それは自分の過去と結びついていたりする。それは自分の魂の中に入っていくことだから。
でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。
一皮剥けば暗闇があるんじゃないかというのは、そういうことだと思うんです。

その暗闇の深さというものは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。なれない人は凄く危険だと思うけれど。
そういう風に考えていくと、日本の一種の前近代の物語性というのは、現代の中にもじゅうぶん持ち込めると思ってるんですよ。
いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。


(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』より)
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by sachiolin | 2012-01-22 03:02 | 引用:: | Trackback | Comments(0)

聴●辻井伸行さん

音がキラキラしているなあ。
魂の泉にふれている音。

わたしたちが見えてないものが
たくさん見えていて、
わたしたちがさわれないものを
たくさんさわっているんだろうな。

辻井さんの音は、
その魂の泉を、やさしく
わたしたちにふれさせてくれる。





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by sachiolin | 2012-01-20 18:19 | 聴● | Trackback | Comments(0)

聴● Jo Kondo "Walk"

この音世界すごく好き 
この音の空間が好き  
聞いててあそべる 
耳がいろんなところにいく 
なぜか山田うんさんのダンスを思いだす


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by sachiolin | 2012-01-19 02:38 | 聴● | Trackback | Comments(0)

道≡ 六道

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今日は法事だった。
落ち葉に囲まれたお墓をきれいに掃除した。
黄色い小さなテントウ虫がいた。
落ち葉の一部は、時を経て
本当に土に変わっていて妙に感動した。

きれいにお掃除をして、お花を活けて、お線香を焚いて、
南無阿弥陀仏と拝んだ。天国はどんな所かしら。お元気かしら。
どうか楽しく幸せで暮らしていますように。静かにお祈りした。


凜とした冷たい空気と、
太陽に照らされてキラキラしているお花と、
ユラユラ揺れるお線香の煙のなかで、
不思議な気持ちになった。
自分自身も浄化されていくような気がした。


お坊さんが、六道の話をされていた。
昔仏教について少し勉強していたのに
忘れかけていたから、wikipediaからメモしておく。

やはりぐっとくるのは、輪廻を単に空間的なことや死後の世界のことではなく、
今の心の有り様で地獄にもいくし、天界にも通じていると解釈していることだ。


心の有り様。心の持ち様。
日々の自分の心の浮き沈みも、迷いも喜びも、
確かに輪廻なのかもしれないな。

ぐるぐる巡っている、この毎日が、ある意味修行なのだろうな。


花を照らして下さったオテントウサマ、
黄色いかわいいテントウ虫も、
きっと天道からのご縁だわ。(些か強引)


ただ、演奏したり、芸術の世界に手を触れようとするときは、
この六道をあるがままにぐるぐると、共存させ、そして
なおかつきちんと操る必要があるのだろうなと感じる。

だから、タフでないといけないし、自分とじっと向き合う鍛錬が必要だ。

そう考えていくと、日々の生活や心がけが大切だし、何より、自分にとっては、
楽器を弾くことや、音楽に触れることが、修行なのだなと改めて感じる。

だってモーツァルトは、明らかに天国とつながっているし、
地獄への深い崖っぷちもありありと見えている。
シューベルトもそう。

天国と地獄を見つめながら
天使と悪魔を遊ばせながら、色んな世界を旅した彼らの音に直に触れられるのは
どんなに幸せで、ゾクゾクすることか。


引き続き、毎日を味わっていかないと。


お坊さんのお経と、お説教を聞きながら、
色んなことを思った1日だった。


≡≡≡≡≡


六道(りくどう、ろくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。

≡天道≡
天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれていない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。

≡人間道≡
人間道は人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、仏になりうるという救いもある。

≡修羅道≡
修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。

≡畜生道≡
畜生道は牛馬など畜生の世界である。ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。

≡餓鬼道≡
餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。

≡地獄道≡
地獄道は罪を償わせるための世界である。

※地獄(じごく、Skt:नरक Naraka、音写:奈落)
仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が死後に生まれる世界とされる。地獄は、サンスクリット語で Naraka(ナラカ)といい、奈落(ならく)と音写されるが、これが後に、演劇の舞台の下の空間である「奈落」を指して言うようになった。

日本の仏教で信じられている処に拠れば、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。

こうした地獄の構造は、イタリアのダンテの『神曲』地獄篇に記された九圏からなる地獄界とも共通することがたびたび指摘される。たとえば、ダンテの地獄には、三途の川に相当するアケローン川が流れ、この川を渡ることで地獄に行き着くのである。

『古事記』には地獄に似ている黄泉国が登場する。ただし、『日本書紀』の中に反映されている日本神話の世界では、地獄は登場しない。代わりに恨みや果たせなかったのぞみなどを抱えたまま死んだ魂は、鬼となるといった物語は、菅原道真や今昔物語などのその例が見られるが、地獄に落ちてといったものはでてこない。


東アジアの仏教では、地獄の色は道教的に、あるいはその影響を受けた陰陽道的に「黒」で表す。餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青、この三色を混ぜると地獄の黒になると言われる。また、節分で追われる赤鬼、黄鬼、青鬼はここから来ている。



≡≡≡

このうち、地獄から畜生までを三悪趣(三悪道、あるいは三悪、三途)と呼称し、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合がある。また地獄から修羅までを四悪趣と称することもある。
また六道から修羅を除いて五趣(五道)と称すこともある。初期仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣とし、修羅はなかった。つまり五趣の方が六道より古い概念とされる。これは当初、修羅(
阿修羅)が、天部に含まれていたもので、
大乗仏教になってから天部から修羅が派生して六道となった。したがって、これらを一括して五趣六道という。


≡歴史≡

仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。
インド・中国起源ではないが、日本では11世紀ころ、六道の各々に配当された六地蔵が各所に祀られ、大いに庶民から信仰された


今日の言葉*

欲望は何を欲望しているか知らないから、欲望に「応えよう」としてはいけないのだと思う。欲望には、応えようとせずに、端的に「応える」のでなければならない。欲望を追わないこと。欲望の方に、追わせること。欲望が欲望しえなかった欲望を開示していくような、そういう生き方をしたいと思う。

(森田真生さん)
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by sachiolin | 2012-01-14 23:08 | 道∺ | Trackback | Comments(0)