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わたしの心の風景メモ。 


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オススメオペラ

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渋谷セルリアンタワー能楽堂でのオペラ、非常に素晴らしく大感激☆
お値段は高めだが、見て損はなし…というか見ないと損!この土日にぜひ。力強くオススメ。様々な要素が見事に溶け合い、新鮮な息吹を感じた。ブラボーの嵐。
http://nohtheatre.web.fc2.com

写真左に見えるのは、チェンバロ。この位置に、小編成オーケストラも入る。

前半の作品では、イタリアオペラ×狂言を、後半の作品では、フランスオペラ×お能を堪能できる。西洋と東洋の交わり、という試みは、よく有りがちともいえ、上滑りすることもあるが、公演後のトークコーナーで演出家の伊香さんの「本質から外れることなく、本質をぶつけ合うことを、試みた」という言葉通り、それは、非常に新鮮で見事な融合だった。私は、目の前で展開される舞台に引き込まれながら、なぜか、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」が思い浮かんだ。何ともいえない、風通しのよさ。自由さ。見事な演出により、バロックオペラに、息が吹きかけられ、まさしく「春の息吹」のような、生命の鼓動、「新しいオペラシアターの誕生」を、感じたのだ。


狂言の所作をそのままに、あれ程、イタリアオペラがイキイキと、粋になるとは、驚きだった。

後半はもっと驚きである。能スタイルに則って、歌手は、謡い(でいいのかな?)として、着物を着て、舞台右脇に正座したまま、粛々と歌い続けるのだ。舞台では、役者として、能が舞われる。こんなのは見た事がない!何とも歌手泣かせ(お客喜ばせ)の演出である。こちらは、お能とオペラを一度に楽しめてサイコーだ。あちらは、表舞台に乗りつつも、歌声だけを捧げて、おまけに足も痺れてくるし、色んな意味で、些か幽体離脱のような気分なのではと、お察しいたしました。南無阿弥陀仏。

能面というのは不思議なもので、角度や場面によって様々な表情に見えてくる。普通オペラというのは、大袈裟な身体表現が求められる訳だが、その真反対のベクトルにある、動かない、静なる仮面=ペルソナ(…静かな怒りの方が、実はよっぽど怖い)、静なる動きが、見ているものに想像力を掻き立てるのだ。

考えてみると、全体を通して、舞台装置というものもない。能舞台をそっくりそのまま使っている。着替えも大公開。裏方の動きも大公開。改めて、実に面白い。第一、ざっくり言って、能舞台は、柱と床(松の絵の壁)だけである。閉じて、分離して、構築していく西洋の建築物に対し、日本のそれは、始めから終わりまで基本的に開かれていて、表裏一体感がヒシヒシと伝わってくる。例えば、障子や襖なぞも、ドアであり壁であり窓であり、あるようでなく、ないようであるような存在だ。

極端にシンプルで、ある意味、丸裸であるからこそ、そこには自由があり抑制がある。

「自由とは、空を飛ぶ凧のようなものだ」という言葉がある。凧糸が切れてしまっては、あっという間に、凧は空に飲み込まれてしまう。凧糸の根っこを如何にバランスよくしっかりと掴み、自由に凧を泳がせるか、それは、とても大切で、難しいことだ。

今回のオペラは、凧糸の掴み具合が、絶妙で、脱帽だった。見ている自分もいつしか完全に空を泳がされていたのだから。


ブラボーの嵐。

とにかく、こればかりは、百聞は一見に如かず。ぜひご覧あれ。
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by sachiolin | 2011-06-25 03:18

観たい映画■ memo

フロイトとユングの映画ができたらしい(!)


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by sachiolin | 2011-06-24 03:04 | 観■Film


こんな透明な美しい声で、こんな美しい瞳で、
こんなに会いたくてと言われたら、大変だ。 

ステキスギル。編曲もステキスギル。


「想う気持ちは 海の底まで 
胸のせつなさ 空の上まで 
他のだれかに愛されるくらいなら 
あなたのためにかなしむほうがよい」 

…ってすごいわ。

いしいしんじさんの「トリツカレ男」みたい。

先日、本屋で、いしいしんじさんの本をとろうとしたら、
「いしいしんじ」という本棚の仕分けパネルが、床に落ち、
「これ…欲しいかもしれない…」と思った私は、相当な
いしいしんじさんファンだと、自覚しました。


人を好きになるというのは、苦しいけれど、
人生で5本の指に入るくらい、ステキなことだと思います。 


いしいしんじさんの
「プラネタリウムのふたご」に出てくる、

「だまされる才覚がないと、
この世はかっさかさの世界になってしまう」

という言葉がずっとひっかかっている。 

知ることと、信じることと、疑うこと/だまされること
震災以後も、この3つの絡み合いの間をぐるぐるしている。



「なにかを信じる、ということ自体が、信じられらないんだ」 
と 話していた友人のことも思い出す。  
(それは、深いところでは、なにかを信じたいのだろうな。)

「信じたいもの(=実は疑っているもの)を捨てることが大切」と 
話していた別の友人のことも思い出す。 
(ナルホド。信じたいもの、ってワードだけで深いな。)



だれかを愛することは、信じること。

それは実は、相手を信じることではなく、
相手を愛している自分を信じること、なのかしらー  


夜中に愛について考えている。どうしたわたし。



「信じること」については、
ずっと、深く掘り下げたかった。


人はなぜなにかを信じたがるのか?
信じるってなんだろう。



◆◆◆


◆「だまされる才覚」?「知らぬが仏」「信じるものは救われる」
◆信じるものはだまされる 
◆信じなければだまされない 
◆信じたことを反省(後悔)しても、信じた自分を否定してはいけない
◆↑自分のなかに信じる者を見つけた
◆↑それが偽り(うそ)だとしてもそのことはほんとう    
◆やさしいうそ
◆「うそからでたまこと」
◆知る 信じる 疑う 騙される  
◆本当 ウソ 偽り  
◆自分 他人 真実  
◆過去 現在 未来 
◆記憶の積み重なり 記憶更新 忘却   
◆閉じる 開く 開かれる 閉じられる 
◆隠蔽 隠される 暴かれる  
◆境界線 
◆意識 無意識
◆光 闇
◆生まれたての赤ちゃんは、なにかを信じているのか?
◆子ども→大人
◆分かる・分かつ・分かち合う



今日の言葉*

「魂のいちばんおいしいところ」

神様が大地と水と太陽をくれた
大地と水と太陽がりんごの木をくれた
りんごの木が真っ赤なりんごの実をくれた
そのりんごをあなたが私にくれた
やわらかいふたつのてのひらに包んで
まるで世界の始まりのような
朝の光といっしょに

何ひとつ言葉はなくとも

あなたは私に今日をくれた
失われることのない時をくれた
りんごを実のらせた人々のほほえみと歌をくれた
もしかすると悲しみも
私たちの上にひろがる青空にひそむ
あのあてどないものに逆らって

そうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂のいちばんおいしいところを
私にくれた


(谷川俊太郎)
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by sachiolin | 2011-06-24 02:56 | 聴●
何だか泣ける… 人々の思いや、それぞれの街並みの
もつ温もり、町とレールを繋いだ人々の情熱、
生きているということの喜びみたいなものが
ジーンと伝わってくる。カンヌで賞をとったとか。

おめでとうございます☆


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by sachiolin | 2011-06-23 01:31 | 観■TV

撮❏ 紫陽花

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夜の帰り道、神社の入り口で、
紫色のおひさまが、静かに光っていた。

ぞくっとするほど美しかった。
かたつむりは、見つからなかった。

かたつむりだったら、
この紫のおひさまの下で
のめりのめりと
ゆっくり散歩するのかしらと
ふふふと笑った。


しとしとと雨が降り続いた。

紫のおひさまは、
ほわほわと光り続けた。
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by sachiolin | 2011-06-20 03:49 | 撮❏

道≒ 野口晴哉

「自分が至らないから、まだ人を救えないとか、
教えられないとかいう人があるが、至った人間など
昔から一人もない。ただ至らないままに人を導き、
教え、救っていると、だんだん至る道に近づいてゆく。 」

「異常を除いて正常であろうと考えている養生人は多いが、
問題は異常ではない。問題は異常の中に正常を保っている
体のはたらきである。それがどのように働いているのか、
それを確かめることに養生の道がある。」



野口晴哉
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by sachiolin | 2011-06-18 04:51 | 道∺
本当にウソついているんだなあ。
がっくり。げんなり。


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by sachiolin | 2011-06-18 04:28 | 観■TV
必見。これが現実。
やっとこういう報道がされ始めた。




日本の政府や東京電力がロードマップというような綺麗な絵を描いて
言ってるような状態では全くないと私は思っている

何十万人の人が多分戻れない
でも本当にそんなことでいいんだろうか
という風に私はそこで立ちすくむ
そこに残れば被曝をしてしまう
それも大変ひどいことだと私は思うけれども
でもそうだからといってその人達を別の所に移すということは
またそれがものすごい悲劇だと私は思う
どっちにしてもすごい悲劇ということが
いやおうなく「選択しろ」と今、言われている
私はもうどうしていいのかわからない
それほどのことが今起きている
そういうことを日本の政府も言わないし
東京電力も何か「漁業被害を補償します」とか
「農業被害を補償します」とか
そんなことを言ってるけれども
実際に起きている悲劇はもうそんなこととは
到底違うひどい被害
悲惨なことが起きている


(小出裕章さん)
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by sachiolin | 2011-06-18 04:25 | 観■TV
みうらじゅんさんの「マイ仏教」すいすいっと読み終わった。
面白かった。この方は、ことばの掴み具合が絶妙。

言葉というのは、うなぎのようなものなのだなあと
みうらじゅんさんの言葉を読みながら感じた。
すいすいと泳ぐ、ことばうなぎを、みうらさんは、
ひょいひょいっと、見事に掴んでいくようなのだ。
川端康成は、ことばそのものが、川の流れのようで、
それもまた好き。よしもとばななさんは、川底に
静かにたゆたっている石や、海底のわかめのよう。
三島由紀夫は、川面に散りばめられた金箔のよう。

どれも違って、どれも好き。

みうらじゅんさんのことばの持つ空間は、
軽快でアソビがあるのだけど、それが、単なる
軽さ=軽々しさにはなっていない。バランスが絶妙なのだ。
青春時代の葛藤や、その後のさまざまな話などを読みながら、
根がまじめな方なんだろうなと思った。志村けんさんもそうだが、
根がまじめな人こそ、本当の笑いを掴むのだと思う。

もっとも、みうらじゅんさんは、喜劇役者でもないし、
笑いを狙っているわけでもないのだろうけれど、
まじめさと、おかしさの、やじろべいが絶妙。
辛酸なめ子さん(←最近、マイブームの、憧れの人)
の独特のユーモアや笑いに通じている。


いやいや、今回の本は、仏教の話であって、
笑いの本ではないのだけれど、笑いとは何か?も考えさせられた。
多分、きっと悟りを開いた人が、朗らかで清らかで温かで、
風通しがいい感じなのも(←釈尊妄想)、そこには、
アソビ=余白があるからで、悟りと笑いは、
どこか通じるものがある気がしたからかもしれない。
笑うって、純粋にすごくステキなことで、
人生そのものかもしれない。(←大きく括りすぎ)
動物は笑わない、笑いは人間の特権というのは、
昔から、マイブーム、マイテーマである。
(昔からブームだったら、ブームではないか。。)


「自分探しではなく、自分なくし(=諸法無我)」

「憧れ/リスペクトする人を、どうしても
真似しきれなかった余りの部分が、コンプレックスであり
自分であり、個性である」

「比較三原則;他人と親と過去と自分を比較してはならない」

「文化は欲望から生まれる」

「ホビー教」

「ご機嫌とり」

「後ろメタファー」

「不安タスティック!」

「そこがいいんじゃない!」


などなど、一言一言が、いちいち面白くて深い。
コンプレックスが何かとということと、自分の今の立ち位置が
どこらへんかというのが、ちょっと分かった気がする。


読み終わったあとに、妙にさわやかな気持ちになった本だった。
これは読む前には、全く想像していなかったことだったのだが、
「そこがいいんじゃない!」とみうらじゅんさんに、突っ込まれた気がした。 


人生はオセロゲームのようだなあと考えていたことがある。
黒優勢の盤を、最後の最後で、隅に白を置いて、
パラパラと反転できるかどうか。みうらじゅんさんの
「そこがいいんじゃない!」は、最後の最後で置く「白」
なんだろうなあと思った。


「ブッダのことば」を読んだとき、
私は、「悟りたくないナ」と思った。
愛する家族を捨ててまで、悟るってどうなの、
ブッダ、それってどうなのよ、と思った。
でも今回この本を読んで、ちょっと腑に落ちた。

「誰も真剣に考えなかったこと、
誰も疑問に思っていなかったことを
考えに考え抜き、考え続けたのが釈尊だった」
「四苦八苦のひとつに、愛別離苦を加えているのが
証拠であり、釈迦の後ろメタファーを感じる」



私は悟りに出たりはしないと思うけれども、
生きていることが、毎日が修行だというのが
分かったので、苦しみながら楽しみたいと思う。

死ぬときに、
「まあ、いろいろあったけれど、いい人生だったじゃない!」
と言えたらいいな。 

だから、寝るときに
「まあ、いろいろあったけれど、いい一日だったじゃない!」
と言っていこう。


こんな自分だからこそ。
こんな毎日だからこそ。
こんな世の中だからこそ。




今日の言葉*

「そこがいいんじゃない!」

(みうらじゅん)
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by sachiolin | 2011-06-18 04:09 | 読◇non-Fiktion

常・ 木村敏

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永遠が日常性と重なって意識されるとき、それはかならず、永遠の瞬間、永遠の現在という姿をとる。未来永劫とか無窮の過去とかいうことも表象できるけれども、それは単なる観念に過ぎないか、さもなければ現在の直接的体験としての永遠を二次的に未来や過去に投影したものであるかのいずれかである。永遠が永遠としての実感を伴ってわれわれに直接に現前するのは、いまこの一瞬において以外ではありえない。



(木村敏「時間と自己」)
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by sachiolin | 2011-06-16 18:05