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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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なるほど。


「内田樹の研究室」より引用 ↓


彼が「踏襲」を「ふしゅう」と読み、「未曾有」を「みぞゆう」と読み、「頻繁」を「はんざつ」と読んだことをメディアは「無教養」のしるしだと理解している。
私は違うと思う。
「頻繁」を「はんざつ」と読み違えたのはただのケアレスだろうけれど、「踏襲」とか「未曾有」を読み違えるというのは、それとは種類の違う誤り方である。
首相も70歳近い人間である。これまでの生涯で他人の口から「とうしゅう」という言葉を聞いた機会は数千回、数万回あったはずである。「みぞう」はそれほど多くないにしても、議会の演説でも、テレビのニュースでも数千回は耳にしているはずである。
にもかかわらずその語の読みを誤ったということは、彼が小学生の頃から60年ほど、自分の知らない言葉を耳にしたときに「これは私の知らない言葉だが、どういう意味なのだろう?」と考えて辞書を引くという習慣をもたなかった子どもであったと推察して過たない。
どうして、知らない言葉の意味を考えなかったかというと、「自分が知らないことは、知る価値のないことだ」というふうに推理したからである。
「無知」というのはそのような自分の知力についての過大評価によって構造化されている。
「人の話を聴かない人間」は他人の話のなかの「自分にわかるところ」だけをつまみ食いし、「自分にわからないところ」は「知る価値のないたわごと」であると切り捨てて、自分の聞き落としを合理化している。
けれども、それでは「危機的状況」は乗り越えることができない。
「危機的」というのはふつう「自分に理解できないこと」が前面にせり出してきて、それが私たちの社会の秩序を根底的に壊乱させつつあるような事態のことだからである。
危機に対処するためには、「自分に理解できないこと」を「理解する」というアクロバシーが必要である。
「自分の知らないこと」の意味を探り当てるためには、「自分の知っていること」だけを組み合わせても追いつかない。
どこかで「自分の知らないこと」の「意味がわかる」という力業が演じられければならない。
私たちは非言語的なシグナル(「意味以前」)を手探りすることで「自分には意味がわからないことの意味」に触れようとする。
政治家には荒海を進む船の船長のような資質が求められる。
それは「なんだかわからない事態」に適切に対処できる能力である。
「何がなんだかわからない事態」に遭遇したときに、「私は一貫して正しい操船をしており、何かが起きたとすれば、それは『何か』の方の責任だ」と言ってはばからない人では船長は務まらない。
私たちの政治指導者はどうやら「船長」タイプの人間ではなさそうである
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by sachiolin | 2008-12-15 07:34 | 引用:: | Trackback | Comments(0)
今日たまたま、
ある人がある人に関して
何気なく口にした言葉が
私はどうしても、
受け入れられなくて、
雪の帰り道を
胸の中がぐるぐると
渦巻いたまま、
てくてくと歩いた。

最近、
体の調子は悪くても
心の調子はよかったのだが。

こういう変なきっかけで
色々なことが、突然
灰色に見えてしまったり、
他人に対して落胆してしまったり。


そういう自分が
何だか悲しい。


帰り道の私の心は
足もとの融けかけた灰色の
ぐちゃぐちゃの雪のようだった。

その隣りには夜の冷え込みで
凍った道がギラリと光っていた。





昨日寝る前に読んだ
大江健三郎さんの
「『自分の木』の下で」という
大好きな本に書かれていたことを
ふと思い出した。


「うわさ」への抵抗力を強くすること。




もう一回読んでから寝よう。
明日はきっといい一日にしよう。





今日の言葉*

「悟りといふ事は如何なる場合にも
 平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
 悟りといふ事は如何なる場合にも
 平気で生きて居る事であつた」

(正岡子規)
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by sachiolin | 2008-12-04 12:13 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(2)