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わたしの心の風景メモ。 


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カテゴリ:読◇non-Fiktion( 6 )

読◇ 耳で考える

耳で考える
養老孟司×久石譲

面白かった。

・映像より音楽が先に飛びこむ
・視覚と聴覚処理時間ずれる←多分シナプスの数が違う
・全く違うものをつかまえるから目と耳がある
・連合野、言葉の誕生
・時間(耳)、空間(目)
・昆虫は頭がかたい
・第二の目 脳のど真ん中にある松果体
・脳の神経線維は双方向
・求心系神経:脳に入っていく
・遠心系神経:脳から末梢器官に伝わる
・刺激→求心系神経→中枢神経→遠心系神経→末梢器官
・志向性 インテンショナリティ
・耳:遠心性と求心性の両方がある。抑制がきく。
・目:求心性のみ(鳥は抑制がある)


「形の真髄はリズムである」
三木成夫

・真理には二つあるとハイゼンベルクは書いた。
①静的(スターティック)な真理
②動的(ダイナミック)な真理

①ある土地を知ろうとする時に、航空写真を撮るようなもの
②その土地を知るのに、その土地を歩き回ってみること

目と耳

空間の位置には時間はいらない


「論理は耳そのもの」


「耳の聞こえない数学者や哲学者は基本的にいない」

ほんとなのかなー
調べてみようかなー
興味深い


以下、memo
@R_Steiner_jp:
【シュタイナーの十二感覚一覧表】
①触覚
②生命感覚
③運動感覚
④平衡感覚
⑤嗅覚
⑥味覚
⑦視覚
⑧熱感覚(温感覚)
⑨聴覚
⑩言語感覚
⑪思考感覚(思考感知感覚)
⑫自我感覚(自我感知感覚)
※①~④意志的感覚 ⑤~⑧感情的感覚 ⑨~⑫認識的感覚
(『一般人間学』より作成)



ヌース 理性、精神
プシュケ 霊魂

・ホメロス、ヘシオドスにとって、
プシュケは肉体に生命を分与するもの
ヌースは知的ないし認識的、知ることとしての見ることを表現していた
・プラトンは大宇宙においても、ヌースを霊魂の中に位置づけた
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by sachiolin | 2013-04-19 01:43 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(0)
みうらじゅんさんの「マイ仏教」すいすいっと読み終わった。
面白かった。この方は、ことばの掴み具合が絶妙。

言葉というのは、うなぎのようなものなのだなあと
みうらじゅんさんの言葉を読みながら感じた。
すいすいと泳ぐ、ことばうなぎを、みうらさんは、
ひょいひょいっと、見事に掴んでいくようなのだ。
川端康成は、ことばそのものが、川の流れのようで、
それもまた好き。よしもとばななさんは、川底に
静かにたゆたっている石や、海底のわかめのよう。
三島由紀夫は、川面に散りばめられた金箔のよう。

どれも違って、どれも好き。

みうらじゅんさんのことばの持つ空間は、
軽快でアソビがあるのだけど、それが、単なる
軽さ=軽々しさにはなっていない。バランスが絶妙なのだ。
青春時代の葛藤や、その後のさまざまな話などを読みながら、
根がまじめな方なんだろうなと思った。志村けんさんもそうだが、
根がまじめな人こそ、本当の笑いを掴むのだと思う。

もっとも、みうらじゅんさんは、喜劇役者でもないし、
笑いを狙っているわけでもないのだろうけれど、
まじめさと、おかしさの、やじろべいが絶妙。
辛酸なめ子さん(←最近、マイブームの、憧れの人)
の独特のユーモアや笑いに通じている。


いやいや、今回の本は、仏教の話であって、
笑いの本ではないのだけれど、笑いとは何か?も考えさせられた。
多分、きっと悟りを開いた人が、朗らかで清らかで温かで、
風通しがいい感じなのも(←釈尊妄想)、そこには、
アソビ=余白があるからで、悟りと笑いは、
どこか通じるものがある気がしたからかもしれない。
笑うって、純粋にすごくステキなことで、
人生そのものかもしれない。(←大きく括りすぎ)
動物は笑わない、笑いは人間の特権というのは、
昔から、マイブーム、マイテーマである。
(昔からブームだったら、ブームではないか。。)


「自分探しではなく、自分なくし(=諸法無我)」

「憧れ/リスペクトする人を、どうしても
真似しきれなかった余りの部分が、コンプレックスであり
自分であり、個性である」

「比較三原則;他人と親と過去と自分を比較してはならない」

「文化は欲望から生まれる」

「ホビー教」

「ご機嫌とり」

「後ろメタファー」

「不安タスティック!」

「そこがいいんじゃない!」


などなど、一言一言が、いちいち面白くて深い。
コンプレックスが何かとということと、自分の今の立ち位置が
どこらへんかというのが、ちょっと分かった気がする。


読み終わったあとに、妙にさわやかな気持ちになった本だった。
これは読む前には、全く想像していなかったことだったのだが、
「そこがいいんじゃない!」とみうらじゅんさんに、突っ込まれた気がした。 


人生はオセロゲームのようだなあと考えていたことがある。
黒優勢の盤を、最後の最後で、隅に白を置いて、
パラパラと反転できるかどうか。みうらじゅんさんの
「そこがいいんじゃない!」は、最後の最後で置く「白」
なんだろうなあと思った。


「ブッダのことば」を読んだとき、
私は、「悟りたくないナ」と思った。
愛する家族を捨ててまで、悟るってどうなの、
ブッダ、それってどうなのよ、と思った。
でも今回この本を読んで、ちょっと腑に落ちた。

「誰も真剣に考えなかったこと、
誰も疑問に思っていなかったことを
考えに考え抜き、考え続けたのが釈尊だった」
「四苦八苦のひとつに、愛別離苦を加えているのが
証拠であり、釈迦の後ろメタファーを感じる」



私は悟りに出たりはしないと思うけれども、
生きていることが、毎日が修行だというのが
分かったので、苦しみながら楽しみたいと思う。

死ぬときに、
「まあ、いろいろあったけれど、いい人生だったじゃない!」
と言えたらいいな。 

だから、寝るときに
「まあ、いろいろあったけれど、いい一日だったじゃない!」
と言っていこう。


こんな自分だからこそ。
こんな毎日だからこそ。
こんな世の中だからこそ。




今日の言葉*

「そこがいいんじゃない!」

(みうらじゅん)
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by sachiolin | 2011-06-18 04:09 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(1)
友人に貸していた本が、昨日戻ってきた。
下村湖人の「論語物語」。
何となくずっと、読みなおしたいと思っていたので
ひさしぶりに手にとってみて、不思議な安心感がある。
好きなときに、読みたい時に、いつでも読める。
かたわらに置いておきたいと思う。
まさに座右の書と言うにふさわしい。


孔子と、その弟子たちが、実に見事に
生き生きと描き出されている。
それは、紙の上に書かれた言葉でしかないのに、
それは、命をもって、私の心の中で、不思議なまでに生きる。
孔子という人が、目の前で、ゆったりと静かに語る姿が目に浮かぶ。
自分もその弟子のひとりとして、そこに佇んでいるような
心持になってくる。はじめて、最初から終わりまで読んだときは、
本当に、共に修行をして、長い旅をしたようだった。
温かなものが、自分の中にほわんと育まれ、涙が出た。
さめざめと泣いたり、おいおいと泣いたり、静かにじっと泣いたり、
いろんな涙があるけれど、あれは「温かな涙」だった。

たくさんの章があるが、なかでも好きなのは、

「伯牛疾あり」
「自らを限る者」
「楽長と孔子の目」
「匡の変」
「渡し場」
「陳祭の野」
「泰山に立ちて」



特に、「伯牛疾あり」は、今自分も肌のことで苦しんでいるから
余計に心にしみた。「楽長と孔子の目」は、音楽家を目指すなら、
だれしもが読むべき文章だと感じる。読むたびに、ああ、まだまだ
至らないなぁと、自分の未熟さと目指すべきものの大きさをありありと感じる。


よい本というのは、読むたびに味わいを増す。
よい映画もよい絵もよい演奏も、受け取り手の中で
自由に成長し飛躍する。ホンモノはスゴイ。
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by sachiolin | 2009-10-08 21:47 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(0)
今日たまたま、
ある人がある人に関して
何気なく口にした言葉が
私はどうしても、
受け入れられなくて、
雪の帰り道を
胸の中がぐるぐると
渦巻いたまま、
てくてくと歩いた。

最近、
体の調子は悪くても
心の調子はよかったのだが。

こういう変なきっかけで
色々なことが、突然
灰色に見えてしまったり、
他人に対して落胆してしまったり。


そういう自分が
何だか悲しい。


帰り道の私の心は
足もとの融けかけた灰色の
ぐちゃぐちゃの雪のようだった。

その隣りには夜の冷え込みで
凍った道がギラリと光っていた。





昨日寝る前に読んだ
大江健三郎さんの
「『自分の木』の下で」という
大好きな本に書かれていたことを
ふと思い出した。


「うわさ」への抵抗力を強くすること。




もう一回読んでから寝よう。
明日はきっといい一日にしよう。





今日の言葉*

「悟りといふ事は如何なる場合にも
 平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
 悟りといふ事は如何なる場合にも
 平気で生きて居る事であつた」

(正岡子規)
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by sachiolin | 2008-12-04 12:13 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(2)
今日は何て美しい空なのだろう。
この世に終わりの日が来るのなら
その一日前の日は、こんな空ではないかしらと、
息をのむほどひどく美しいお天気。

青い空に雲が身じろぎもせず静かに浮かんでいる。
太陽の光が、雲たちに微妙な陰翳を与えている。
遠くの空にも、もくもくと真っ白な雲が生まれている。
空気はどこまでも澄んで、冷たく、喉を潤す。
風はそよそよと首にあたり髪を揺らす。

静かで、凛としていて、透明なお天気。
全てを洗い流してくれるような。
全てが生まれ変わるような。

こんな恐ろしく美しい空は初めて見る。




風邪が不思議なほど長引いている。
友人の作ってくれる美味しいご飯を食べて、
薬嫌いの私が珍しく薬を飲んで、
寝たいだけ寝ているのに、である。
まるで体がよくなるのを拒んでいるかのようだ。
咳が止まらず、夜何度も起きては、友人がくれた
液体の咳どめ薬を飲む。鼻をかむ。
昨日からまた喉が痛くなった。
風邪の始まりは喉の痛みだったから、
また一からやり直しになってしまったような感じだ。

最近読んでいる野口晴哉著「整体入門」という本に
足湯がいいと書いてあったので、昨晩試してみた。

消化器系統の風邪(膝下外側を押して痛い)なら「脚湯」を、
呼吸器系統の風邪(足内側を圧迫して痛い)なら「足湯」をする。
脚湯は、膝が隠れるまでのお湯に、
足湯は、踝が隠れるまでのお湯に全部で8分間入れる。
入浴温度より2度ほど高いお湯で、冷めないように差し湯を
しながら行う。6分経ったら足をタオルで拭いてみて
赤くなっていない方の足だけ、もう二分間湯につける。
タオルでよく拭いて、水を飲み、すぐに眠る。

喉の痛い風邪は「足湯」なので、試してみたら
ここ最近で一番よく眠る事ができた。

なんでも、人間というのは、左右がアンバランスになっていて
足の左右で変化の度合いに差が出るのは、左右どちらかに
重心が偏っているからで、敏感な方が早く赤くなり、
鈍っている側がなかなか赤くならないのだとか。
顔も、足の赤くならない側は、小さくなっているし、
体温も左と右では違うのだという。
野口先生によると、この左右差があまり大きくなると
人間は風邪を引き、アンバランスを治しているのだと。
つまり、風邪は病気ではなくて、体の歪みを治す方法なのだという。

ということはきっと相当歪んでいるのね、私。笑
慌てずに治していこうっと。


この著者のことは、数年前に友人に教えてもらい、
衝撃を受けた。これは本物だと。えらい人がいたもんだと。
それから暫く忘れていたが、最近また読みなおす。
ものごとの本質をつく文章は、更に味わい深い。

12歳のとき関東大震災で被災し、
そのときに本能的に手をかざし治療をしたことを機に、
治療家をめざし、15歳にて早くも道場を開いた
というから、驚く。整体の祖として師として
沢山の弟子を輩出し、沢山の人を治療し続けた人生は、
昭和51年に幕を閉じる。

兎角、こういう類のものは、宗教じみて
考えられるが、決して違うと思う。

私の好きなサイトの一つ、
松岡正剛さんの千夜千冊にも取り上げられていて、
読んで、なるほどと思った。

「なぜ野口の意志をこえて広まったのか。
野口が主題ではなく、思想ではなく、
方法を開発したからなのである。
野口は『方法の魂』を残したのだ。
野口自身はその方法を早くに開発していたから、
そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を
期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、
いつだって勝手なものなのだ。」


まだまだこの本に書いてあることが
できないが、少しずつ試してみようと思う。



松岡正剛さんの千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0676.html


今日の言葉*

「 生きることそのものの悦びは、健康の齎す自然の教えだ。
 我等は健康に生きることの尊さに目覚めねばならない。

  人の生きるのは自然である。死ぬのも自然である。
 何のために生きるのか、それは判らない。
 自然を活かすためかもしれない。自然を活かして
 何になるか、それも判らない。
  人は目的も使命も判らないで生きている。
 ただ生きていることそのことが、自然の使命を果たして
 いるのかもしれない。自然に生きていれば快いのだから、
 生きていることそのことが自然だ。それ故、生きていること
 そのものが使命であろう。それ故、生きている目的は、
 生きていることそのものである。

  生きるも死ぬも自然だ。何れにしても順応するだけだ。
 生ききって死ぬことが、働いて眠くなるように快くあれば、
 健康な死と言えよう。生きるとは死ぬことだ。
 死ぬことによって生きているのだ。

  生も快なら、死もまた快だ。快く死ねないのは、
 快く生きていなかったからだ。

  元気に生きよう。進めば道は自ずから拓かれる。
 躊躇している間に、時は過ぎて行く。一瞬の時にも
 生命は流れて行く。死の直前の一瞬も、今も、
 また同じ一瞬である。一秒間も大切に使わねばならない。
 一分間も元気を満たして活き活き生きることが、
 自然の行き方だ。生きる事は、自然の使命だ。

  しとげたことに光があるのではない。しとげつつある 
 その行程に光はあるのだ。しとげたことにしか光を見ないのは
 人間だが、自然の光はしとげつつある行程に現れる。

  自然の生活は苦しむことではない。努めることでもない。
 楽々悠々、すらすら容易に一切のことが運ばれる。
 それが健康な生き方だ。

  自然は山にあるのではない。樹にあるのでもない。
 人間の一呼一吸それが自然だ。」

(野口晴哉 1911-1976)


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by sachiolin | 2008-03-19 01:39 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(0)
風邪は一日で治った!と思いきや
その次の日から予想外にずるずると
引きずっている。
頭とお腹がきりきり痛む。

と、話したら、周りの友人何人かも
僕も、私も…と言っていたので
これは、はて、流行りの風邪だろうか。


それに加えて、よろしくないのは、
ここ数日、眠りになかなかつけないということだ。
あの、「いくらでも眠れる生き物」のわたくしが
こんなことになるとは。
一生の不覚である。(言い過ぎ)


ともあれ、よき睡眠は、健康の基本デスネ。


こうなったら、これを口実に
ずっと欲しかったお高い枕を
インターネットで買ってしまおうかしら。

我が家にある枕の数は、ざっと3,4個。
これぞthe「 安物買いの銭失い。」



最近読んだ、養老先生の本「無思想の発見」で、
なぜ人間は眠らなければならないのか?
という一節がある。
「眠ることは休むことだ」と思いがちだが
寝ていても起きていても、脳の消費エネルギーは
実は、さして違わないのだという。

「意識とは『秩序活動』」であり
(=まったく無秩序に意識活動をすることはできない。
例;意識的にデタラメなウソはつけるが、
話自体はデタラメではない←日本語にはなっている)

そして「意識と無意識は相互に補完する」らしい。
どこかに秩序が生じたら、
どこかに無秩序が生じたということになる。

図書館の話に例えて分かり易い説明が続く。
開館した図書館にはたくさんの人がきて
たくさんの本を読んでちらかしていく。
その状態で閉館する(=眠りに入る)。
それから司書さんたちが、
前の日の朝と同じ秩序に戻るまで片付けを続ける
(=意識はないが、脳内エネルギーは消費する)。
秩序が戻ったところで、再び開館(=意識が再開)する。

つまり、眠っている間に、「勝手に」
脳内のお掃除をしてくれていたというわけだ。
何と素晴らしい。感動。
私の部屋も誰か勝手に掃除してくれないかしら。。



「だからこそ、意識の世界に生きる
現代人は『意識こそすべて』と思っていても
幸い問題が生じなかったのである」と
養老さんはおっしゃる。

そして、「だから如何に覚せい剤のどこが
問題か分かるでしょう」と。

確かに。


眠りはこんなにも大事で
眠りにこんなにも助けられていたとは。


それにしても、この本、面白いなぁ。
「バカの壁」を読んでも見える世界が変わったが
今回もまた、すとんと、世界が広がった。
外国に住んでいると、よく聞かれる
「日本の宗教」について。
私は聞かれるたびに、「無宗教だ」と言ってきた。
そう言いつつも、じゃあ一体無宗教って何なのさと
困った時の神頼みとは調子がいいお話だよなと
内心思っていたが、「無宗教」だと言ってきた。
養老先生のおっしゃる通り便利だからだったのだろう。
それが一体どういうことなのか、
少し、理解が進んだような気がする。
でもまだそれを人にうまく説明できないような気がする。
人に説明するというのは、ただでさえ難しいことだが、
これを、外国人に外国語で説明してみようとすると
これはますます難儀なことである。
日本人以外にもこの本を読んで欲しいなぁ。
英語版が出ないかしら。

如何せん、ますます養老先生の独特の語りが
濃くなってきていて、それが故に批判されたりも
するのだろうが、私はこういうおじさまは
好きである。あとがきがまたよい。


「いつもヘソの曲がったことを考えるから、
どうも世間に受け入れられない。
そう思っていたら、本が売れてしまった。
しかしこの本は売れない。売れないと思う。
ますますヘソが曲がってきたからである。
でも素直に考えているんだから、
これはこれで仕方がないのである」



今日の言葉*
「身体を使え。」
「努力・辛抱・根性 」
「自分の世界観が『変わる』ことに勇気を持ち、それを楽しめ。」
「100年たってもなくならないような、
 人間の生活に密着した普遍的な職業を選べ。」
「教養とは他人の心が解ることだ」
(養老 孟司)
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by sachiolin | 2007-10-26 10:28 | 読◇non-Fiktion | Trackback | Comments(1)