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わたしの心の風景メモ。 


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カテゴリ:観□Foto( 1 )

観□ 石元泰博さん

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仕事の帰りに、鎌倉近代美術館で石元泰博写真展を見た。桂離宮シリーズ。石元さんの写真は、私にとってとにかく不思議だった。今までに体験したことのないような写真だった。沢山の作品をじっと見ていくうちに、石が石に見えなくなってきた。畳が畳に見えなくなってきた。あちらの世界が、こちらに流れ込んできて尚且つ変容するのである。私が朧気に分かったことは、石元さんの視線は、今まで私が様々な写真で感じてきた視線のどれとも異なるということだ。単なる「透き通ったガラス」ではない、単なる「あるがまま」ではない。対象そのものだけを撮っているのではない。単にこちらから、あちらを撮っているのではない。必然的に、その写真(あちら)をみている、私(こちら)も、単に対象そのものだけを見ていない状況になる。それは直線でもなく、一方通行でもない。それは曲線もしくは波動であり、ベクトルはあちらこちらへ揺れ動く。石がまわりの空気をとりこみながら「変容」し続ける。しかし、そこに物語がある訳ではない。寧ろそこには、物語はない気がするのだ。あるとしても、人間の頭が勝手につくり出す物語、ではないものである。あの石たちは決して語っていない。何かを語るものではない。そして、また、単なるむき出しの美しさとも違う。そのことが、少なからず、私を動揺させるのだ。なぜなら、むき出しの、あるがままの姿を、自分なりの視線で、そこに映し出すのが、写真であれ、映画であれ、音楽であれ、芸術と呼ばれるようなものだと、今まで思っていたからだ。石元さんの写真のなかの石は、とまっていない。それが不思議だ。一見あれだけ静謐な写真なのに、ゆらゆらしているんだ。かといって、変に生々しくもない。それに一瞬をとらえたとか、そういう次元ではないんだ。石を撮りながら、石を撮っていない。石の環世界、とでもいうべきものを撮っている気がする。石をとりまく世界。それは、ひとことでいえば、ゆらぎ、なのかもしれない。実在ではなく、存在というべきものかな。そこに、ただ石があるということをとりまくゆらぎ。見るという行為がどういうことなのか、ほんとうは私たちの目は何を見ているのか、そういうことを、ゆらゆら、もやもやと考えさせられた。

石元氏が、どのように、この桂離宮を撮ったのか、風の旅人に掲載されている。あれほどの完璧な大胆な構図を切り取るのに、時間をかけず、迷わず一直線に向かい、パシャととるだけだったと。やはり、次元が違うのだなあ。佐伯さんの書かれている通り、「世界を先取りしている」のだろう。だから、あんなに時間の軸が普通とは違うと感じるのか。


それにしてもあらためて、鎌倉はいい所だなあ。自然と人工物の割合がちょうど心地よい感じ。海も山もあるのもよい。風情がある。鶴岡八幡宮内にある近代美術館も、こじんまりとしつつも、よかった。一階の池の前の手すりが、映画「ノルウェーの森」で直子に再会するシーンによく似ていた。主人公が、手すりを指で弾きながら直子に近づいていくシーン。でもあれは、井の頭公園のはずだから、違うかな。あの映画は、なかなかすごかったなあ。



今日の言葉*

写真とは曖昧なもの

石元泰博さん
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by sachiolin | 2012-04-17 22:32 | 観□Foto | Trackback | Comments(0)