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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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空 ( ) 村上春樹

店の外に出ると、染料を流し込んだような鮮やかな夕闇があたりを包んでいた。空気を吸い込んだら、そのまま胸まで染まってしまいそうな青だった。空には星が小さく光り始めている。夕食をすませた土地の人々が、夏の遅い日没を待ちかねたように家を出て、港の近辺をそぞろ歩きしていた。家族がいて、カップルがいて、仲の良い友だちどうしがいた。一日の終わりのやさしい潮の香りが通りを包んでいた。ぼくはミュウと二人で歩いて町を抜けた。通りの右側には商店や小さなホテルや、歩道にテーブルを並べたレストランが連なっている。木の鎧戸がついた小さな窓には親密な明かりがともり、ラジオからはギリシャ音楽が流れていた。通りの左手には海が広がり、夜の暗い波が岸壁を穏やかに打っていた。


( )


頂上から空を見上げると、月は驚くほど間近に、そして荒々しく見えた。それは激しい歳月に肌を蝕まれた粗暴な岩球だった。その表面に浮かんだ様々なかたちの不吉な影は、生命の営みの温もりにむけて触手をのばす癌の盲目の細胞だった。月の光はそこにあるあらゆる音をゆがめ、意味を洗い流し、心のゆくえを惑わせていた。それはミュウに自らのもうひとつの姿を目撃させた。それはすみれの猫をどこかに連れ去った。それはすみれの姿を消した。それは(おそらく)存在するはずのない音楽をかなで、ぼくをここに運んできた。ぼくの前には底の知れない闇がひろがり、背後には淡い光の世界があった。ぼくは異国の山の上に立って、月の光に晒されていた。すべては最初から周到にたくらまれていたことではないのかと疑わないわけにはいかなかった



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村上春樹「スプートニクの恋人」
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by sachiolin | 2011-04-21 12:26 | 空 ( )