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わたしの心の風景メモ。 


by sachiolin
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ふたとコップと底と水。

先日、若い人のためのコンサートがあった。
中高生が、実際にオーケストラの中に混じり
バーンスタインとコープランドの曲
一緒に演奏した。私の隣りの子は
フリデリケという女の子だった。
彼らには曲が難しかったと思うが、
4回だけののリハーサルで、よく本番をしたものだ。

この演奏会のトリとして登場したのは、
私の大好きなエマという歌手だった。
私だけではない、彼女の歌を聴いた人は
皆、彼女の虜になっていた。





「何年か前に、ここと交換留学制度のあるオーストラリア
からやってきた彼女は、ぐんぐんと実力を上げ、
今や私たちの、ここの歌劇場の『スター』です!」

と指揮者から華々しく紹介されて、
品のある黒いドレスに身を包んで登場したエマ。

曲目は、ウェストサイド物語から。


彼女が歌い終わった瞬間。

まさに「割れんばかりの」大拍手が轟いた。
普通の感動ではない、一種異様な空気が劇場に爆発した。
何百人というお客さんの心を、彼女は
あっという間に、完璧に丸ごと持っていった。

歌声そのものの魅力、歌唱力はもちろんのことだが
その演技力もものすごい。一体この人はどれだけの
他人を内に秘めているのだろうかと疑問に思うくらい
どんな役をさせても、すっと、そこには、
その役の生身の人間が生きて、喜び怒り悲しみ笑う。
オーケストラピットで、声だけ聴いていると、
「これはほんとにエマ??」と思うことがある。
それだけ、変幻自在に声も表情も操るのだ。
まるで違う人間に聞こえ、見える瞬間がある。
彼女は、普通に役者としても、十分に活躍できるだろう。
それほどの演技力なのだ。それほどの魅力なのだ。


明らかに、彼女は、何かが普通と違う。

歌唱力、歌声そのもの、演技力、容姿・・・
そういうものを目の前に並べるだけでは
見えてこないもの。もっと根本的なもの。

どうしてあれほどまでに、彼女の歌が、
異様なまでの感動を呼ぶのか。


何が違うのだろうか。




コップが目の前にあるとする。
コップというのは、液体を容れるものだ。
水を飲みたければ、コップにためればよい。
便利なものだ。

自分がコップで、
他は水なのだとする。

少し前の日記にも書いたが、
演奏というのは、コップに少しずつためた水を
あふれさせていくもので、それが空になってしまったら、
また水をためなくてはいけない。だから大変なのだと。
また満ちるまで待たなくてはいけない。時間がかかる。


普通は、多分そうなのだと思う。
だが、彼女の場合は何かが違う。

多分、私が思うに、コップの底が抜けているのだと思う。
弱い水流で、ちびちびためる普通の人と違い、
世界に身をまかせ、より沢山の他を見つめ、強い水流のなかに
おそれずにコップを力強く突き出しているうちに、
その水圧で、きっと底が抜けたのだ。
だから、水が、ずっとずっと流れ続けているのだ。
そこには、もはや、空間というのはないに等しい。
底が無くなったコップは、単なる円筒で、
水の流れと一体化している。
それは、円筒のようであり、もはや水そのものでもある。
つまり、常に自他の境界線が無くなった状態なのだ。


水は常に上から下へとコップの中で流れ続ける。
他は常に過去から未来へと自分の中で生き、死に続ける。


底抜けコップは、あっという間に水をのみこみ、はきすてる。
普通のコップは、水を溜めるのには、あふれるまで時間がかかる。

コップの中に溜まりあふれていく水は、
ひと昔前の水と、今上から注がれる水が混じって
中でグルグル回っていて、新鮮度も純度も違う。
何しろ底抜けコップは、「今」の水しかないのだ。激流なのだ。
山の中にある川の激流だ。ものすごい勢いで流れ続けているのだ。
湧水や水道水をコップに注いでいるのとは、
ダイナミックさが違うのだ。


彼女が人前で歌うとき、
人は誰しも圧倒的な感動をおぼえる。
彼女と言う円筒を通して
こちらにあふれ出てくる圧倒的な激流に、
客席の沢山のコップが、その瞬間
底抜けしているのだと思う。

彼女の歌を聴くと、私はいつも「清々しさ」を
強く感じる。そこにはねっとりとした感動はなく、
まるで山の緑の香りのような爽快感があるのだ。

それは、まさに底抜けの感動であり、
全てを突き抜けた爽快感なのだと思う。
全てが一体となった気持ちよさなのだと思う。


人間が生まれたときは、多分常にこういう
底抜けの感動を、味わっているのだろう。
おそらく3歳くらいまでは、自分と他者の
区別もつかなく、目に飛び込んでくる、
耳に聞こえてくる、全てものに、
心も目もキラキラさせて丸ごと飲み込んで
その瞬間にその激流は彼らを突き抜けていく。
人間の原型は円筒のなのだと思う。

その時期が過ぎると、底を作り始めてくる。
自分と他を区別するようになる。
ここに自己意識が確立する。
水をコップに溜めて、他を自分のものとする。
確保しようとする。コップの形ができてくる。

その時期を過ぎると、今度はふたを作り始める。
激流の中に身を投じたままだと、また底が抜けてしまう
かもしれない。せっかくできたコップが壊れてしまうのは
怖い。人の目が気になる。どう思われているかが気になる。
そうだ、ふたを作ればいいんだ。ふたをしてしまえばいいんだ。
ここに自分だけの空間が出来上がる。自意識過剰の世界が出来上がる。
しかし、閉め切った空間では、水も腐りだしてくる。
苦しい。外の世界へ抜け出たい。試しに少しふたを開けてみると
容赦なく水が入り込んでくる。世界は厳しい、社会は厳しい。


かくして出来上がった、ふたつきのコップ。
この底作りとふた作りは、
思春期・青年期と呼ばれるのかもしれない。
ここまでが、ひとつの人間のかたちが
できる上がるまでのいわば、「成長」なのだろう。
しかし、ここからいかにふたを外し、ふたを捨て、
最終的には、底を抜かすことができるかが、
本当の意味での「成長」であり、「進化」であり、
子供のころに、原点に、戻るということなのだと思う。


円筒で生まれた人間が、ふたつきのコップになるまでの過程は、
いろんな意味で避けることのできない、大事なステップだと
言えるはずだ。ただ、そこからどれだけそれを
壊していけるかというのかは、より大事だろう。

守破離というのは、まさにこのことだ。
ふたをつくって守った自分のコップの空間を
ふたを破って、底も破いて、
コップから離れて、水と一体となる。
宇宙と一体となる。


底を抜くことは多分想像以上に大変だろう。
それはときには痛みをともなうこともあるだろう。
何しろ、原点を探し当てることなのだから。
あのピカソでさえ、年老いてから、
「子供のように描けるようになるまで今までかかった」
と言ったくらいなのだから。
何しろ、長年親しんできた、底なのだから。
自分の力だけではどうしたって、無理なのだ。
やはり激流の中に、ホンモノの演奏の中に、
ホンモノの絵画の中に、ホンモノの言葉の中に、
ホンモノのダンスの中に、ホンモノの大自然の中に、
自ら身を投じていかなくてはならない。
ホンモノの水の流れを、自ら求めていかなくてはならない。


私は最近やっとふたを捨てることができた。
たくさんの強い水の流れにふたがいつの間にか外され、
満ちる喜びを知り、あふれる喜びを知った。
これからは、底を抜かすほどの激流の中に
勇気を持って歩みよっていきたい。
人間は弱いから、一度底が抜けても
またいつの間にか底を作ってしまうだろう。
そうしたら、何度でもまた歩み寄ればいい。

今、この瞬間を流れ続ける激流に身を委ね、
今、この瞬間に生きて、死ぬということを
ただ感じ続けていきたい。



今日の言葉*
「『嶺南人無仏性』というやり方は、まだ人の顔に
無明が見えているうちに無明を見出していけということである。
これではない、これでもないと、しりぞけしりぞけて
本当のものを追い求めてゆくのだ。」
(岡潔「春風夏雨」より)



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Commented by いなば at 2009-06-25 13:47 x
これはかなり面白いメタファーですな。
大人になると共に、入れ物としての自分を作っていく。
小さい入れ物だと小さい物しか入らないし、大きければたくさん入る。
でも、入れ物の大きさが有限だと、有限なものしか入らないし、その形に合わないものしか入らない。
でも、入れ物の底が抜ければ、無限に入る。底がぬけながらも、常に何かが盈ち溢れているってのは、水が常に流れ落ちてるから。
常に動的で常ならない物が入り続けているから底が抜けていてもかまわない。最後は入れ物も何もなくなって、自分を滅していくんでしょうね。
竜樹の空とかそんな感じだし、西田幾多郎の絶対無の空間とかそういうのに近いと思う。
この感性は相変わらずスゴいなー。
わしは、最近【こころとからだ】とは何かについて考えていて、自分の中で盛り上がっています。笑
Commented by la strada at 2009-06-30 09:00 x
この、妄想の世界広がりすぎの独りよがりの日記に(笑)、コメントありがとうございます。
「常に動的で、常ならないもの」
そこですね、大事なのは。「他」というのも、常に変わっていく。言いかえると、瞬間瞬間で死んでいく、猛烈に瞬間を生きている。激しい流れ普通のコップを入れてみると分かるけど、かなりの力でしっかりと掴んでないと、流されてしまう。底が抜けてしまったほうが、結果的には楽なのだけど、完全に底を抜かすまではかなりの時間と忍耐と勇気が要るのかもしれません。本当に意味で「芯がある人」の「芯」は、固形の細い棒状の芯ではなく、「他」の激流でできている常に動き常ならぬ液体の流れそのものなのだろうなぁ・・・。
Commented by la strada at 2009-06-30 09:01 x

竜樹さんってドンファン的生活(笑)を経て悟りを開いているのですね~
(ドンジョバンニは最後まで顧みず地獄に落ちてしまったわけですが。)なんか、すごいな。。。説得力あるというか何というか。今や誰もが認めるすごい人が、実は元非行少年だった…みたいなドラマを感じますね~。

上から降り注ぐ激流で、ふと思い出したのが、ニュートリノで、「サイエンスミレニアム」を興奮して読んでました。「つむじ風、回転しながら進むこと」に興味がわいているのですけど、ニュートリノも、まっすぐではなく回転しながら猛烈に落ちていると知って更に興奮。笑。スーパーカミオカンデも円筒形の巨大タンクに純水を満たしたりしてて、ネタがかぶりすぎで、さらに興奮。笑。。いやーそれにしても、こんなものが、今も私の体をものすごい勢いで突き抜けているかと思うと、本当に不思議な気分です。

「こころとからだ」は、何気に私がずーっと掘り下げているテーマだー。
非常に興味深しです!「寝ること」日記も面白かったですー。
by sachiolin | 2009-06-23 09:55 | 考〇 | Trackback | Comments(3)